『言葉を育てる』 米原万里 対談集(感想 4)

●「an apple」と「the apple

養老: 「This is an apple」。これは、リンゴに共通するなんらかの性質を集めてきてリンゴという概念を構築し、それに当てはまるものをリンゴと言っているわけです。この場合の an apple は実は頭の中にあるリンゴです。定冠詞のついた the apple になると、「そのリンゴ」で、リンゴであることは了解済み。行っている話が頭の中から頭の外に移るのですね。


(中略)続けると、「筑波山にアゲハチョウがいる」、「筑波山にいない」という例では、「いる」という話は一匹採取すれば済む。「いない」と言ったら大変です。証明がほとんど不可能だからです。今の話から分かるのは、「筑波山にアゲハチョウが」と言ったときに、皆さんの頭の中に筑波山とアゲハチョウのイメージが出てきてしまうんです。それが「いない」と言った瞬間に消されなければならない。しかし、頭の外の世界における筑波山とアゲハチョウに当てはめると、消せないのです。消さなければいけないのは頭の中で起こっていることだから。

最後は、米原さんではなく対談相手の養老孟司さんの言葉より。この「 an apple と the apple 」問題にしろ、「“ある”は一例で証明可能、“ない”はほとんど証明不可能」問題にしろ、脳科学、哲学、心理学…さまざまな分野で参照されるトピックで、知っている人も多いと思います。私も大学時代、専攻していた言語学の中の「論理学」という授業で知りました。ウィトゲンシュタインとかやる授業でしたね。劣等生の私(劣等感バリバリw)が覚えているぐらいだから、学問的には本当に基本トピックだと思います。

あ、今、「覚えている」ってサラッと書きましたけど、半分嘘で、普段はほとんど忘れてるんですね。んだけんじょ(と急に会津弁)、自分の子どもが言葉をしゃべり始めたころに、普通名詞を覚えてゆくことにものすごく感動していたのは記憶に新しい。たとえば「コップ」、それを、子ども本人が家で与えられている、新幹線の絵のついたプラスチックのもの(=「the コップ」だけでなく、色や柄や素材が違っても、形が大きくても小さくても、持ち手があってもなくても、初めて見たものでも、「コップ」と言うようになるんですね、それはもう、言葉を喋り始めてものの数か月で。それは、子どもが、説明されなくても、「コップ」とは、「the コップ 」ではなく、「a コップ」のことなんだ、ということを知り、「a コップ 」の属性を収集・分析するからですよね。言葉を喋り始めてものの数か月で!

大学の勉強ってほんとに怠けてたし、「なんで史学、最低でも文学を専攻しなかったのアタシのバカバカバカ・・・・!」って今でも自分で自分を罵ってやりたいんだけど、あそこで思わぬ道をかすめ通ったことで、私の人生、ちょっとだけ幅が広がったのかなーなんてことも思う。なんせ子どもがしゃべり出す過程で、「ヒト、すげー! すばらしい! 今、超貴重な生育段階を目撃してる…!」て、やたらと面白がったり感動できたりしたのは、育児ストレス緩和って面だけでも、大いに意義あったかも。

もちろん、この対談はもっと遠大なところまで展開していくわけで、養老さんのこの話に、米原さんはスターリンの粛清を思い出した、と言う。理想的なロシア人の国を作ろうとしたスターリン。話が進み、養老さんは答えて、

(中略)結論は、われわれが何かを「同じだ」と言っているのは頭の中でしかありえない。「違う」というのは頭の外の話、ということです。僕は、物事が「同じだ」ということを人間が考え付く、それが不思議だった。なぜなら、僕はしょっちゅう外の世界を吟味する職業だったから。人間の死体でさえ、一個一個見れば全部違うのです。「リンゴだ」と言う時、かじってみたら蝋細工だったということも起こり得る。

という。

みんな違ってみんないい。世界にひとつだけの花。金子みすゞSMAPの歌をみんな好きだというけど、一方で、同じであること、普通であることに執拗にこだわる日本人・・・・。「the apple」でなく「an apple」でなければと思ってしまうんですよね。そんなとき、これからは「それは頭の中にしかないリンゴ」と唱えるようにしたいと思います。(おわり。)