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『言葉を育てる』 米原万里 対談集(感想 3)

●「劣等感」、何それおいしいの?
9歳から14歳(1959-64年)まで、父親の仕事の都合でプラハに住み、ソ連が衛星国の子女のために運営する小学校に通った米原さん。14歳で帰国した時、「劣等感」という言葉が飛び交っているのがすごく不思議だったという。

ソビエト学校では、生徒が絵や歌、詩の朗読がうまかったりすると先生は心の底から感動し、ときには授業の最中でも教室を飛び出して職員室まで行き、そこにいる先生すべてを呼んできたりしました。同様にまわりの子どもたちも一緒に喜ぶのです。才能をもっている人と同じ空間に生きていることを純粋に喜び、そのことを祝福するのです。その才能と自分とを比較したりは決してしません。つまり劣等感がまったくないのです。足の引っ張り合い、妬みという感情が希薄で、それがすごく心地よかった。


(中略・ロシア出身のチェリストが、どんな大舞台でも決して緊張しないことを説明して)「僕は天才だから」というのです。嫌味でしょ。でも良く聞いてみると、「僕の才能は神様からもらったものだから、僕自身のものではない。僕は才能を単に差し出すだけですから」と言うのです。彼は熱心なロシア正教徒で、その影響が強いのだと思いますが、多かれ少なかれロシア人はそういう考え方をもっているように思います。


(中略)学校では五十か国くらいの子たちが通っていて、1クラス20人ぐらいなのですが、どの教科でもできる子とできない子の差がものすごく大きいのです。でも面白いのは、できない子もできないことそのものが個性としてまわりから認められているということです。つまり、どうできないかということが個性なのです。試験も○×や選択式ではなく口頭試問かレポートですから、できないことのなかにちゃんと個性が表れる。でき方にもいろいろあって、ひとつとして同じものがない。ですから比べようにも比べられないのです。


本の学校は○×と選択式の試験だからロボットが答えても同じ答えになるし、先生でなく機械でも評価することができます。生徒をみんな一列に並ばせ、同じひとつのものさしで評価しますから、できる子とできない子の区別は明確になってしまいます。そこに劣等感が生まれるのは当然ですよね。しかも学校も親も同じものさしで見ますから、劣等感をもった子どもは救われません。救おうにも別の尺度のものさしがないのですから。ロシアの学校では、できようとできまいとそのものが個性で、地球上でたったひとりの存在だということを常に感じるわけです。だから人と比べたり劣等感をもったりする必要はまったくないわけです。日本に帰ってその差がすごく大きいなと思いました。

米原さんは、ロシア語の「劣等感」は一般語ではなく、心理学用語や学術用語であると言う。プロがそう言うならそうなんだろうけど、「劣等感」の感覚がないというのは、正直、私は信じられない。ゴーギャンに対するゴッホモーツァルトに対するサリエリなど、古今東西、劣等感や嫉妬の例は枚挙にいとまがないように思う。ロシアだけが免れ得るものでしょうか? ああ、トルストイドストエフスキーもまともに読んだことのないおのれが憎い。米原さんがチェコのロシア学校に通ったのは10歳前後の5年間だから、ロシア語圏では、少なくとも子ども時代は劣等感ゼロが普通ってことだろうか。

ともあれ、米原さん自身がそのような感情からついぞ自由であったことは確実そう。というのも、別の章、同業者であり親しい友人でもあるイタリア通訳者田丸公美子との対談で、

田丸: (米原さんについて)やっぱり、人を惹きつける魅力があると思うわ。姑息なところが全然ないの。風格ね。人間の大きさが違うのよ。


米原: 体重と幅と奥行きがね。どうしたの。なんでそんな、月並みなこと言うの?


田丸: あなたのスケールは日本には入りきらない。(やけになって)私、結婚してるのよ。夫がいるのよ、子どもがいるのよ。少しはうらやましがってよぉ〜!


米原: 勝手にやってなさい(笑)

というやりとりがあるのだ。田丸さんの「私には夫と子どもがいる。うらやましいでしょ」って言葉、普通は、どれだけ親しい仲でもありえないと思う! 彼女は、長年の付き合いで、既婚だとか子ありだとか、米原さんが屁とも思ってないのを知り尽くしているから、こんなことが言えるのだ。

●本を読む人、読まない人
ちなみにこの二人の対談は3章あってどれもホントに面白いんですが、「友だちにするなら」って話題で、差別意識のない人、お金に綺麗な人・・・などが挙がったあと、

田丸: 与謝野鉄幹に♪妻をめとらば、才たけて〜♪って歌があるけど、“友を”の部分は知ってる?


米原: 教えて。何て言うの?


田丸: ♪友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱♪ っていうの。書を読む友も大事なんじゃない?


米原: そうね。本を読まない人って現実べったりで考えに奥行きがないんだよね。

のやりとりも印象的。読書には、どこか罪悪感がある。その裏返しとしての背徳的快感もある。昔、大多数の人が貧しく、家族で農業や漁業や手工業なんかをやって生きてた時代は、生きること=食べることであり、食べるために働く、というのがシンプルな現実、絶対的真理で、そこに奥行きなんて必要ないというか、むしろそんなものは現実の邪魔だったんだと思う。生きること=食べること=そのために働くこと。人生それだけでいっぱいいっぱいで、他のものが入り込む余地なんてなかったはず。「良い嫁さん」とは「良く働く嫁さん」だった。今だって、「食べるために働く、それが現実」という原理そのものが変わったわけじゃない。現実、大事、とても(なぜか外国人の日本語ふう)。だから、「本を読まない人」のことをこんなふうにズバッと評されると、なんかちょっとドキドキする。いいのかな、と思っちゃう。「本を読むことが当たり前」って環境で育つのは実はけっこうエリートなんじゃないかなと思う。私は本を読まない両親のもとで育ったので。でも、米原さんの言葉もわかる。こんなこと言えるのってちょっとうらやましくもある。