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『武士の時代』 五味文彦 (感想・上)

歴史

武士の時代―日本の歴史〈4〉 (岩波ジュニア新書)

武士の時代―日本の歴史〈4〉 (岩波ジュニア新書)

「日本の中世を歩く」が面白かったので、再び五味先生の本を買ってみた〜。新書。しかも岩波ジュニア新書というレーベルから出ている。子どもだましでは全然ないですよ。「源平争乱から応仁の乱前夜までを新書1冊で」となれば、個々の論点を深く掘り下げることはできないけれど、その分、すごくテンポがいい。歴史のダイナミズムを感じられてすごく面白かった!

大人になると、歴史関係の本を読むにしても、人物とか、出来事とか、時代とか、何かしら「論点を絞った」本を選ぶことが多くて、「通史」を読むことってなかなかないから、とても新鮮。大人になって読む通史の何が面白いかって、様々な「つながり」を感じとり、面白がれるようになっていること。(逆に、教科書のような「通史」はやっぱり子ども向きではないんだろうなあ。)

1.有名な歴史イベント同士の「つながり」を感じられる

たとえば、子どものころには、「源頼朝鎌倉幕府をひらいて、その死後、しばらく経って承久の乱が起きた。首謀者は後鳥羽上皇」というふうに覚える。…というふうに覚えるしかない。そこには大したつながりがない。もう少し勉強した子なら、後鳥羽上皇は「新古今和歌集」を編むよう勅命を下した人であり、自身、優れた歌人でもあったと知っているだろう。知っているからこそ、「文化人としておとなしくしておけばよかったのに分不相応に幕府に盾突いたから流罪になどされて」ってイメージを持ったりする(子ども時代の私がそうでした)。でも、違うんだよね。

スポーツや文化は政治から分離しているものだ、というのは現代の考え方で(ホントは全然分離してなかったりもするけど)、後鳥羽が和歌の興隆に力を入れたのはズバリ政治のためだった。

「新古今」の序文には、和歌は「世を治め民を和らぐる道」と記され、人民統治の手段であることが述べられている。

(前略)新古今時代と称される和歌の黄金時代が到来した。それは鎌倉の実朝(エミ註:3代将軍ね)にも大きな影響を与え、王朝社会の文化的優越性の主張となり、また王朝文化への統合の働きかけともなった。 

頼朝の死後、鎌倉の武士が内紛にあえいでいるのを横目に、後鳥羽はまず、文化の面で王権を優位に立たせ、実朝をも心酔させた。実子のいない実朝に、自らの皇子を派遣して後継者にしようとした。同時に、身辺には武力を蓄える。在京の御家人や西国の守護などを直接に掌握し、北面の武士に加え、新たに西面の武士も編成。経済面でも、後白河上皇から継承した荘園のほか、八条院(後白河の異母妹=鳥羽院と美福門院との娘)の膨大な所領を娘の春華門院に継承させ、主要な天皇家領をほとんど管轄する。こうして、文化的にも、政治的にも、経済的にも、実力を高めたうえで、実朝の殺害を機に、討幕ののろしをあげたのだ。それが「承久の乱」。彼はもともと単なる文化人ってガラじゃない。和歌は遊びなんかじゃなかった。


2.歴史イベントと民衆の暮らしとの「つながり」を感じられる

鎌倉幕府に始まる中世は、リアリズムの時代。京都の公家が日本中の土地の名義上の所有者になっていた、民衆の姿の薄い時代から「ここは俺の土地だ」とそれぞれが主張するようになる時代。その時代性が、宗教や文化にも影響し、そしてまた新しい時代をつくる。

平安時代末期、寺院社会は俗界と同じような秩序と武力をもっていた。大河ドラマ平清盛」でも比叡山の僧たちが日枝神社の神輿をかついでたびたび都に強訴に訪れる。膨大な寺院領があって経済力もあった。そういった世間的な利益を求める活動に疑問を抱き、寺院社会に属さずに活動する「聖」の道を選ぶ者たちが現れる。その先駆者が西行である。続いて民衆の中に入って広く勧進活動を行うことのできる重源のような勧進上人が現れる。

念仏をひたすら唱え往生を願う浄土宗が広く受け入れられたあと、禅宗が出てくる。

阿弥陀仏への絶対的な救いを求める浄土宗の他力の教えに対して、自力で往生を悟ろうとする禅宗の教えは、自力によって物事を解決しようとする時代の風潮とも合い、急速に広まっていった。源平の争乱で自害した源頼政は、往生を願う辞世の和歌を詠んだが、鎌倉後期になると、自害する武士たちは禅宗の影響を受けて、漢詩で辞世を詠むようになっていた。

「自分の土地を自分で守るというリアリズム」は人々の文字の読み書き能力にも関係する。

財産は親から譲られる分割相続であって、男子も女子も譲られたが、その土地を守ってゆくためにも、字の読み書きは必須となった。自分の土地は自分で守るのが社会のキマリであり、父母から譲られた土地の権利を証明する文章(譲り状)を所持し、権利を侵害された時には、幕府に訴えて取り戻す必要があった。その譲り状は自筆で書くことが求められたから、字を書く能力はいっそう求められたのである。

やがて、「リアリズム」社会は武士階級から農民ら普通の人々にも及んでいく。承久の乱後、東国の御家人たちは西国の土地を恩賞として貰い受けるが、自らは鎌倉に住んで、各地には代官を派遣することが多くなった。すると、池や用水などの灌漑施設を独自に築くなど、現地の運営は村落の農民らがみずから担うようになる。そのうちに、地頭などの領主に対抗する力を蓄えていったのだ。彼らは、独自に村の掟を制定したり、村落同士で結びついて連署して起請文をつくり、神の前で誓ったり(一味神水)、それに基づいて領主に「強訴」の形で訴えたりするようになる。

元寇も手伝って幕府の力は衰えてゆき、後醍醐天皇が明確に討幕を志すのだが、そこではリアリズム社会が育てた「悪党」と呼ばれる新興の武士たちの存在も大きかった。歴史は英雄のみが作るにあらず。多くの背景があり、無数の人々の暮らしが時代をうねらせてゆく。