プロ中のプロのプロセス

デザイン力が必要な仕事なんてやったことないし、センスとか皆無な人間で、子どもがいるとは思えないような無味乾燥なインテリアの家に住んでますけど、最近*1、偶然、「デザインの力」に関するテレビを二種類見ました。

ひとつは、「プロフェッショナル仕事の流儀」で佐藤オオキさんの特集を。名前すら知らない方でした。ちなみに私と同い年なのね。デザイン事務所をやってるんだけど、なんかもうすごい。デザイナーって、こういうもんだっけ? 椅子から、地球儀から、店舗内装、缶パッケージ&ネーミング、そして箸。ありとあらゆるもののデザインをする。しかも、仕事が早い。クライアントとの最初の顔合わせで依頼を受けて、その3日後にプレゼンだったりする。世界20か国以上からオファーがあり、250もの案件を抱え、一年の半分は海外にいる。当然英語でのコミュニケーションも堪能。さすがデザイナーだけあって、スタイリッシュな格好をしてるんだけど、これが、アメリカ臭がまったくないんだよね。イタリアがヨーロッパでの本拠だとか言ってたかな。かといって派手でもなく、スノッブな感じもしない。「ものすごく仕事ができそう」と「親しみやすそう、何でも相談できそう」とが両立してる。さすが、ご自分のデザインも完璧だわーと惚れ惚れした。仕事の様子を見ていると、もちろん、見かけ倒れでもない。エルメスバカラのようなハイブランドからの依頼もあれば、岩手の小さな酒蔵や、福井の箸工房などの仕事にも自ら出向く。もの作りの現場を見るのが何より好きなんだそうです。そして、本当に熱心に考える。すぐさま考え始めて、ぐぐーっと集中して、いくつもいくつもアイデアを出す。すぐにサンプルを作らせて、すぐにプレゼン。

もうひとつは、「東北発☆未来塾」11月は気仙沼で開講。デザインの勉強をしていたり、気仙沼に住んで復興活動をしている若者たちが塾生として参加する。講師の梅原真さんは、第一次産業の再生をテーマに活動しているデザイナー。過去には出身の高知県で、名物・一本釣りした鰹を売り出す商品をデザインしたり、リゾート開発から砂浜と松原を守るために「砂浜でTシャツ美術館」を催したりしている。「私たちのまちには美術館がありません。美しい砂浜が美術館です」というのがそのときのキャッチフレーズ。気仙沼では、新しく名物とするべく住民が頑張っている唐桑茶・かつおバーガー・牡蠣の燻製のパッケージを塾生たちがデザインするのをアドバイスする。津波で流された塾生の家があった場所にみなで行き、「風景だけでなく思い出も消えていった気がする」と彼が言うと、「こういった思いを受け止めるのが一番大切」というようなことを言う声が涙で震えているようだった。

なんだプロのデザイナーだったら、商品をヒットにつなげるとか、集客を増やすとか、そういった「結果」を追求すること・されることは当然として、それだけでもないんだなあ、と、見ていて思った。両番組。

いろいろな分野のプロが月替わりで講師を務める「東北発☆未来塾」を見ていると、人間の叡智や若い人の可能性に希望を感じる反面、もの悲しい気持ちになることもある。家がないとか仕事がない、それによって希望もない、という喫緊の失望や絶望に対して、これでは間に合わないだろうな、とか、ほんの一部しか救えやしないよな、と。たとえば東北名産品に対してすばらしいパッケージデザインやキャッチコピーができたとして、それらすべてが大ヒットするかといえば、やはり難しいだろう。雇用の問題等で若者が流出し高齢化が進むという問題は、震災以前からある構造的な問題だ。そういう意味では、過疎や高齢化の問題を抱えるのは東北だけですらない。いくら知恵のある人がいて、やる気のある若者がいても、これじゃ、いたちごっこだよなと思ってしまう。根本的に変えていかないと無理だよ、って思いそうになる。

でも、未来塾11月最終週で、塾生たちが、名産品の作り手さん達を含む地元の人々の前でデザイン発表会をするのを見て、やっぱりそういうことじゃないんだよなと思った。大きな構造をガラッと根本的に変えてしまえる能力を持った人は、ごくたまにしかいない。普通は、根本的に変えなきゃ、と考えると、そのあまりのハードルの高さに、簡単に絶望してしまう。無理だよね、難しすぎるもんしょうがないよね、って足が止まる。大切なのは、そうならないことなんだ。やめないこと、絶望しないこと。

プロフェッショナルな技能をもつ人が、かわるがわる東北へ来て、ノウハウを伝えること。地元の人が、若者たちの情熱に触れること。会話、共感、小さな発表会。人の感じ方は相対的なものだから、ほんのちょっとのことでも、楽しいな、うれしいな、と思えたりする。商品がいきなり大ヒットして、これからの生活が保障される・・・とまではいかなくても(たぶんいかない)、こうやって、みんなで考えたり、笑ったりすることそのものに価値があるんじゃないかな、と思った。こうして書いてると、なんか、コミカド先生がもっとも嫌う「絆」みたいで、随分薄っぺらいんだけども。

梅原さんは、「デザインは謎解き。問題を解決するために、答えを焦ってはいけない。今回の塾も、“考えるプロセス”を体験する糸口になれば」のようなことを言った。もちろん、仕事にするならば最終的には「結果」が必要なんだけれども、その「考えるプロセス」が大事なんだな、と思ったね。佐藤オオキさんは、「目先の利益を出すものをつくるのではなくて、10年後、20年後に、あの出会いがあって良かったなと思ってもらえるようなものを」と言っていた。そこまで目指せるのは、まあ、ずば抜けた能力を持っている人だから…って気もするけど、でもそういう情熱っていうか心意気なんだよな。

仕事なら結果によってしか評価されないシビアな面があるのは事実。だから昔は「結果よりもプロセスが大事」なんていうのは甘えなんじゃないかと思ったりもしていたけど、オオキさんにしろ梅原さんにしろ、プロの中のプロがプロセスを大事にする姿を見ると、そういう安直なことなんじゃないんだな、と思う。まあ、現状、私が取りたてて報酬を得る仕事をしてないからだ、と言われれば一言もないですが(と言いながら書き続ける笑)。

過程に依存するんじゃなくて、良き過程ありきでの良き結果なんだよね。そして人生は日々の積み重ねだから、ある意味、過程そのものなんだと思う。

*1:'13.12.12記す