『旗本夫人が見た江戸のたそがれ〜井関隆子のエスプリ日記』 深沢秋男

旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (文春新書 606)

旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (文春新書 606)

ブックオフにて購入。やっぱり個人の日記は面白いね〜。…って言いたいとこだけど、新書とはいえ、原典に舌鼓を打つには遠かったかなあ。章立てがイマイチだった気がする。カテゴリごとに分類するんじゃなく、年月に沿って粛々と抜き出してくれたほうが臨場感があって良かったような…まあ、個人の好みですかね。

旗本といっても様々だろうが、隆子が再婚した井関家は大身。子(前妻の子、親経)は大奥の広敷用人となって広大院(家斉の正妻)の係を担当し、孫も家慶の小納戸係で、世帯の収入は現在に換算すると3000万程度あったと見込まれている。血のつながらない子や孫、曾孫らと配偶者、という一家にあって、隆子が彼らと大変仲が良い様子なのは、「ごちそうさん」における西門家のお静さんとは正反対である(比較対象ではないがww)。日記に書き残していないだけで実際は…ってわけでもなさそうなんだよね、これが。子や孫とやたら酒盛りをしている描写もあるし(隆子は無類の酒好き。親しみが湧くわ〜w)、政治向きの情報なんかも、子や孫から日々仕入れていた様子がうかがえる。近世における「家」とは必ずしも「血」ではないというのがよくわかる。

興味深いのは世の様子。家斉の子のひとり(姫)が亡くなり、商家はすべて店を閉ざしたりと自粛・・・ではなく、当時はそういう下命があったらしいが、家斉といえば、後世の今では側室や子どもが異様に多いことで有名な将軍だ。50人以上いたという子らは半分ほどが夭折しているのだから、変な話、しょっちゅう「慎み」モードになってたんだろうな、と。当たり前だが、日記は「またかよ」的ではなく、悼む筆致で受け止めている。

それから、江戸時代も後期となると組織や慣習がものすごく出来上がってるんだなあということ。広大院の養母、近衛経熙の正室が亡くなったとき、親経は広大院の名代として葬儀に出席することになる。京都行きである。その旅の大掛かりなこと! 

昨日、夕方、親経はお城から退出したが、多くの品々を賜った。松の殿(広大院)からは、御衣に添えて、黄金60両(約1200万円!)、御文庫二つに、白羽重に八丈絹、御杯、さまざまの袋物、綾錦の楊枝差など賜った。東明の宮*1の上よりはじめ、多くの方々からお使いがあって、白銀三包に御文庫などを賜り、所狭しと並べられた。

出発の日が近づいてきたので、家の中には旅の荷物が所狭しと並べられている。旅に同行する下郎の羽織や脛巾なども、新しい幕に包まれている。親戚や知人から届けられた旅の餞の品々など、記し留めるのも煩わしいほどである。

今日は、親経は登城して、御朱印や将軍様の押手などを受け取り、また、松の殿の贈物、白銀二百枚、お菓子代、ご消息を賜った。その他の方々のものは、皆取り揃えて、お長持に納めて下された。

なんか、すごい。『武士の家計簿』(磯田道史)でも加賀藩の下級藩士の記録で、家計の苦しい中で冠婚葬祭等、親戚づきあいの金を捻出する様子があったが、高貴な方々のおつきあいというのは桁外れである。大奥の上臈にしろ大名家の女性たちにしろ、日々、関係各位への挨拶や付け届けに追われるもので、粗相のないように万事取り仕切る配下の者たちには大変な能力が必要だったのではないかと思われる…。

この日記が書かれてわずか25年ほどで幕府は滅び、明治の世となる。政治の知識や情報を豊富に持ち、それらを咀嚼して書き残している隆子も、情報をもってきていた子・孫らも、当然ながら、幕末の萌芽を感じとってなどはいない。はかなさを感じるのと同時に、現代もまったく同じなのだと思う。10年後、20年後にまったく違う世の中になるとしても、私たちは気づく由もないんだろう。

*1:徳信院=直子のことかな?慶喜の義祖母。大河『徳川慶喜』で鶴田真由が演じていた…)からは、白紅の紗綾二巻、家定の君からは白紗綾二巻を賜った。これらは、このたびの旅立ちについてのものである。 今日は、早朝から、それぞれの御方の御座所へ参上した。峯寿院((家斉の娘にして水戸藩主・徳川斉脩の正室、斉昭の養母