『八重の桜』への愛を語る (6)(終)

ジャンヌダルク八重

紅白歌合戦で司会をする綾瀬さんを見ました。放送数日前から、NHKのいろんな番組に出てた綾瀬さん。「花は咲く」を歌う前から大粒の涙を流していた綾瀬さん。きれいな声。涙での笑顔。ドラマ後半で八重に感じていたもやもやなんかすっかり忘れて、綾瀬さんに見入ってました。かわいらしくて、天真爛漫で、まじめで懸命で、人の喜びも悲しみも感じやすい綾瀬さん。素敵な綾瀬さん。

そんな綾瀬さんのパブリックイメージが、八重に投影されなければならなかったのだろうな、と、「花は咲く」でもらい泣きしながら、考えたりもしました。

復興支援を自ら掲げた大河だから、できるだけたくさんの人に見てもらって、共感したり夢中になったりしてもらわなきゃならない。八重を通じて東北をより応援するような気持ちになるドラマに…。だから、好感度の高い綾瀬はるかが選ばれ、ひたむきで、前向きで、意志が強く、美人でスタイル抜群な八重、紅白での綾瀬さんよろしく「国民の妹/娘」になれる八重をつくった。

その選択が間違っているとはやっぱり簡単には言えないし、でも、それ選択した時点で史実の「新島八重」とは大きく離れたんだろうなーと思うと複雑。

地に足をつけてまっとうに生きる両親から深い愛情を受けて育った。ドラマの前半でのそういった描写が、私自身、とても大好きだった。風雲急を告げる都の幕末に比して、会津の家族たちは癒しだったし、ああいう「まっとうな家族」(模範的な、とは違う)が昨今の大河ではかなり不足してたというのもある。

でも今振り返ってみると、そもそもあんな破天荒な生き方をした兄妹をつくったのは、「封建主義の時代にあっては、ちょっと変わったといっていい、とてものびのびした家庭」ではなくて、「ずいぶん変わった家庭」だったかもしれないし、八重も覚馬も、一般ピープル(死語)から見ると、とてもじゃないけど共感なんて容易にできない、規格外の人間だった可能性の方が高い気がする。

そんな描き方をしても良かったと思う。「あまちゃん」の春子だって、「リーガルハイ」の古御門だって、好きだという視聴者は採っても多い。でも「八重の桜」の作り手はそうしなかった…。むしろどんどん、守りを固めてゆく八重だった。そしてそれとは対照的に、覚馬はかなり早い段階から作り手に投げ出された印象がある。

ならば、籠城戦での姿を見られたのは僥倖だったんだろーか。三郎の死を知らされてからの、激しい怒りと静かな狂気にとりつかれたような八重さんは本当に美しかった。綾瀬さんはこんなふうにも輝く人なんだ、と、目の覚めるような思いがした。本当に迷いなく、一心に、頼もしく戦っていて、すがすがしかった。重臣たちに向かっての大演説も、開城前の容保に向かっての大演説も、「出たよ主人公の出しゃばり」なんて感想が散見されたけど、私にとっては全然そんなんじゃなかった。それまで積み重ねられてきた経験や思考回路から一歩も逸脱していない、説得力あふれる熱弁だと思った。「会津は絶対に朝敵なんかじゃない」会津人たちはみな、その思いで戦い、敗れたあとも、それをよりどころにしていたはずだ。「女があんな場面で発言するなんて」ってTPOなんかより、「あそこで、主人公がみんなの血を吐くような思いを代弁する」ことのほうがよっぽど大事だと思ったし、籠城戦での綾瀬さんの演技は本当に迫真で、魂がこもっていると感じてました。流す涙に嘘がないと感じさせるのは天賦の才ですかね。

で、あればこそ、明治の八重さんは美しい野獣が牙を抜かれただけではなく、「作り手の事情」という物語の中には影も形もないものに飼いならされてしまったようで、とても悲しかった。あんなふうにポヤーッとしてるようで、綾瀬さんは、そこに鈍感な人ではないと思ってます。彼女は立派な女優です。彼女は…西島さんや綾野さんもそうですが、視聴者の私たちなんかよりずっと、複雑で割り切れない思いで後半の撮影を続けていたのではないかと思料します。でもそんな中でも、綾瀬さんはかなりちょくちょく東北に足を運んで、植樹イベントとか、いろんなことをやっていたそうですね。そして紅白があったわけで、彼女は「八重の桜」の仕事をまっとうしたのかな、と思います。けれど同時に、「こんなにもひたむきな彼女を完全燃焼させられなかった八重の桜」をずっと憾みに思ってしまうのも止められそうにありません。ともかく綾瀬さん、本当におつかれさまでした、これからますますはばたく女優さんでありますように(事務所は彼女を「国民の娘/妹」ポジションに閉じ込めるんじゃないぞ!)