『陰陽師』夢枕獏

陰陽師(おんみょうじ) (文春文庫)

陰陽師(おんみょうじ) (文春文庫)

2013年にして陰陽師デビューしました。本はもちろん映画にも、ずーーーーっと気になりつつ触れたことなくて。そういうタイトルは時々ある。いきなりやってくるタイミングを待って、手を伸ばす。陰陽師の私のタイミングが、今、きたのです。

一気に読めた。なるほどなーーー、というのが感想。話題になって、映画にもなって、人気シリーズになるのがとてもよく腑に落ちた。ハードボイルドな推理小説なんだけど種明かしが超自然現象って新鮮。超自然現象といっても、オカルトではなく伝奇的な色合いだから、日本人のDNA的に受け容れやすいんだよね。たぶんすごく詳しく資料をあたったうえで、文体や雰囲気はくだけたものを作っているから、読みやすいんだけど、私みたく、すぐ「考証ガー」とか言いたくなっちゃうタイプでも、これはこれなんだ、と納得させられるものがある。

・・・と言いつつ、どうしても、「こいつら昼間はちゃんと仕事してんだろうな。博雅の官位はどーなってんだ。武士でありながら帝と言葉を交わしていたようだったが」とか「ふたりともいい年した設定で女はおろか家族の影がないのはいかに」とか、作者がわざとつくっている「余白の部分」が気になってしまう私はハードボイルドの良い読者ではないんだと思う。や、長いシリーズなんだから、徐々に明かされていく部分もあるのだろう…と思うのだけども。晴明が博雅に対して「おまえはいい漢だな」(漢と書いて“おとこ”と読ませるのだ、夢枕センセイはw)とやたら言うのも、絶大な力を有するホームズたる晴明が、ワトソンたる“ただびと”の博雅を精神的に対等な地平で見つめていることの証左として、必要なセリフなんだろう…と解釈しつつも、どうにもむずがゆかったり。

要するに晴明にも博雅にも、あんま萌えんかったとですよねw 「原作読んだら、映画版、見られないかも。イメージの違いが許容できなくて…」なんて危惧は杞憂で、むしろ、映画はどんなもんなのか見てみたいぐらいになってます。私が読んだイメージでは、萬斎さんでは表情が出過ぎるような気がするんだけど、でも萬斎さんは素敵だから、むしろ映画を見たら、小説も萬斎イメージで読むようになってしまうかも。博雅が伊藤英明ってのは…ww まあ、当時は好青年で売ってたからなwww でも、当時のイメージだと爽やかすぎて朴念仁感が足りない気がするのよね。

ともかく、エピソードはどれも、とても好きでした。最初の、羅生門の上に棲息している鬼からして壮大で、でも次の梔子の女のばかばかしさがかわいくてね。黒川主のエピソードがいちばん好きだったかな。エログロなんだけど抑制されていて。

最後の白比丘尼が、分量的にもっとも短くて、よって構成も単純な小編なんだけれども、すばらしい余韻を残してくれた。人魚の肉を食らって年をとらなくなった白比丘尼。姿かたちは若く美しいままだが、身分も金もない貧しい男たちに、ただ同然の金で身を売って生きていて、体に溜まり続けた男の精と、とらなかった分の年が結びついて体内で鬼蛇となる…。30年に一度、その鬼を滅散させてやるのが陰陽師の役目なのだが、仕事が終わったあと、晴明に「おれの初めての女であった」と言わせるところがキモだった。あれは単なるベタでも男の劣情でもなく、作品の広がりにものすごく寄与していたと思う。

あそこで晴明に対するイメージが鮮やかに変わるところがあるのよね。どういうシチュエーションでの同衾かはわからないけど、鬼性をもつからこそ美しい、哀れな女に惹かれ、女の中の鬼を育てることに加担した、無数の愚かな男の中のひとりであるわけよ、晴明も。本人はもちろんそのことを自覚してるよね。小説1冊分、涼しい顔で呪をあやつり、苦も無く魑魅魍魎を片付け、帝のことすら「あの男」と呼ぶ晴明を見てきたけど、「哀れを解する」というか、「彼もまた、体内に哀れをもつ」という晴明の芯に、あの一言で、初めて読者は触れることができる。そのことで、晴明に対しても、また、晴明が成敗してきた鬼たちに対しても、なんだかより哀れや愛おしさを覚えることができるような気がする。

その言葉を聞いた博雅が「なんだか、わけもなく哀しくなってきたな」と言い、それに応えて晴明がまた「おまえは優しい漢(おとこ)だな」と言うんだけど、そのやりとりをも包み込むような、しんしんと白く深い雪…良いラストであった。そうか、第一章では天竺の鬼が出てきて空間の広がりを、最終章では三百年生きる鬼が出てきて時間の広がりを描いたんだなあ。さすが、よく考えてあるなあ。