『古典の森へ』 田辺聖子
- 作者: 田辺聖子,工藤直子
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1992/02
- メディア: 文庫
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「ミセスのティータイム」という欄の1コーナーだったらしい。まさにそんな感じで、お茶でも飲みながらさらさら読む感じ(実際には大半を布団でごろごろしながら読んだ)。でも、これが当然、面白い。確かに学究的な、難しい内容はないんだけど、古典の知らないエピソードや、良い和歌がたくさん紹介されていたり、田辺流の解釈も豊富で、あたりまえだけどすごい知識・教養。それを惜しみなくじゃんじゃん話してくれる。一般主婦向けに。それが本になってる。
こういうのって、最近、ない気がする…と、また、そういう感想を抱く。現代は、時代小説は書下ろし文庫を中心にとにかくたくさん出版されているし、本屋大賞の候補になるようなエンタメ文学にも気鋭がいるけど、こういう、「古典や歴史(史実)に触れられる本」がとみに減っているように思う。PHP文庫とか新書は別にして。そういうものを書いている一般の書き手には、いま思い出せば「負け犬の遠吠え」の酒井順子がいるけど、これも源氏と枕草子の二大巨頭のみ。
書き手の問題はわからないけど、読み手がわの要因は間違いなくあるだろうなって思う。売れないんだろうなあ。さみしいことである。古典、面白いのに。そして、別に古典文学の関係者でもなんでもないけど、ゆゆしきことだなあと思う。売れないから出版しないとくれば、古典を好む人はますます減っていくばかり。自然淘汰といってしまえばそれまでかもしれないけど、何百年も、一千年も読み継がれて残ってきたものを、簡単に手放したくないって思う。だって面白いんだもん。
といっても私も古典に精通しているわけでは全然なく、原典なんてほとんど読んだことないなんちゃって古典好きで、源氏物語は別格としても、「更級日記」にしろ「蜻蛉日記」にしろ、現代語訳で読んだって(←たいていが10代のころ)「これのどこが名作なんだろう…」と首をひねってたけど、瀬戸内寂聴や田辺聖子や永井路子、橋本治なんかが書く、こういった「やさしく古典を読み解く」とか「古典をテーマにくだけた対談をする」とかいう本で繰り返し触れるにしたがって、おもしろさ、味わい深さを知るようになったのだ。この手の本の役割は大きいよ。
「和泉式部と帥宮との和歌のやりとりを読んでいると、男女の仲というより、人間の波長があったんだろうなと感じる」
「『大鏡』では村上天皇と妃・安子のエピソードがいい。やきもちを焼いたり焼かれたりを実に大らかにやっている。ふたりそれぞれの人柄も好きだし、夫婦としてのありようもいい」
「『堤中納言物語』では「虫愛づる姫君」が有名だけれど、小品が十編ほど入っていて、実は近代的な歯切れの良い短編小説が並んでいる。終わり方など、ちょっとその先が知りたい…というあたりでポッと切ってあったりして、短編小説を書くときなんかすごく勉強になる」
「西鶴ほどの才能ある人とは、ちょっとお近づきを願ってみたい。あの湧き出る泉のような名文がどこから出るのか」
などなど、この本も、古典の豊かな世界に、いざなってくれる。
気難しいおじさんが訳知り顔で偏屈な文章を書きたてている、という印象の「徒然草」を「若いうちに読んじゃダメ。30代でもまだ早い、40の声を聞いてから読むもの。50代になると、なおいい」と評しているくだりがすごく良かった。「キメ細やかな思いやりが感じられる」と百二十九段の一節を紹介している。
大人が、ちっちゃな子を、おどしたり、口でからかったりして面白がるのはいけない、とたしなめているのね。大人同士なら、笑いごとですむかもしれないけど、「幼き心には、身にしみておそろしく、恥づかしく浅ましき思ひ、誠に切成るべし」というのね。子どもは、とてもおびえるのだよって、そういうところまで、キチンと心くばりしてるというのは、優しい人なのだなと思います。そう、真の大人、という感じですね。
そんな箇所があるなんて知らなかった。ていうか、読んだのかもしれないけど、原典(現代語訳)そのものを読んでいたら、すーーーっと読み流してしまうところが、不徳の読者には多々あると思う。まさに、門外漢にとって、古典は鬱蒼とした森なのだ。そういうところにふせんをつけて、豊かな感性で紹介してもらえることで、古典への親しみはぐっと増すのだ。