『八重の桜』 第48話「グッバイ、また会わん」

襄の臨終。やっぱり、とても良かった。うるうる。大学設立への志半ばで力尽きていく姿に、役柄にふさわしい描写をされないまま退場していくのね…という「このドラマの襄」への視聴者としての無念が重なって、一種、妙な、深い味わいのある悲しみがありました(苦笑

オダギリジョーはすばらしかった。慈愛にあふれ、命をかけて働き、命の炎を燃やしつくしていく人間の姿を、「深い書き込みのある脚本でなくても」表現していて…。こういう脚本なのに、新島襄という人の篤志と情熱とが伝わってきたのはすごいこと。それが役者オダギリジョーの志であり情熱なんでしょうね。誠実な仕事をする人なんですね。特にすごく好き、ってわけじゃなかったんですけど(そこまで言えるほど彼の出演作品をたくさん見ていない)、今作で、本当に良い役者なんだなーと再確認しましたね。

しかし、だからこそ! ドラマの足りなさに言及せざるを得ない。今日見ていて再確認した(してしまった)。

  • このドラマで、人物造形がもの足りないと思う人物トップ3: 1位 八重。 2位 覚馬。 3位 襄。
  • このドラマで、関係性描写が足りないと思う関係トップ3: 1位 襄八重。 2位 八重覚馬。 3位 襄覚馬(←襄帰国後から同志社設立まではまだ良かったがその後が…)。

これって、とても残念なドラマ、ってことだ。もちろん主観ですけどね。

ラスト3回ともなれば、必然、総括的な台詞や場面も多くなるんだけど、「その中身が見たかった」「いつのまにそうなったの?」って思うことが連続でねえ。

アバン、大隈の遭難。ちゃんと映像つき。襄の発作につなげるためとはいえ、相変わらずエピソードの取捨選択、軽重の置き方が謎。襄先生「愛国心とはそんなものではない」。それはそうだとは思うんだけど、じゃあ襄先生にとっての愛国心とはどんなものなのか? 結局、襄の人生の来し方、それによって育まれた信念に、このドラマはついぞ踏み込まなかった。江戸時代に、ひとりで密脱国までした人なのに。

愛国心。国を支える人材。「なんとなく良いもの」という感じはするけれど、人によって解釈は千差万別だろうという言葉。そういう、「漠然とした概念」の中身を視聴者の想像に委ねるのは、作り手の逃げだと思う。万人が納得できるものでなくてもいい。それぞれの登場人物にとっての「愛」とか「神」とか「愛国心」とかは、何なのか? なぜ、そういった人生観に至ったのか? 視聴者が見たいのはそこだ。それがなければ、登場人物に対してどんな感慨も湧いてこない。登場人物が生き生きと立ち上がってこないのだ。

いきなりの秋月さん再登場。大好きだったからうれしいんだけどさ…。襄の書いた「同志社設立の旨意」を読んで、熊本に行くことを決めたんだってさ。これ、そういう史料があるんですかね? 創作だとしたらあんまり好きじゃないな。確かに、新聞雑誌に大々的に掲載された文章だから、教育に携わっていた秋月さんが読んだ可能性は実際に高いと思う。でも、「それが一番の理由」ってことにすると、秋月さんという人の人生が何だか軽んじられているような…。

何より、そんなにも感銘を与えた襄の文章の内容が、視聴者には知らされていない! 何この置いてけぼり感ww てか、風貌といい喋り方といい、秋月さんはどーしてこんなに年をとってるの? ひとりで竜宮城にでも行ってきたの? あ、彼が正しいんだ。八重さんは不老不死の薬でも飲んでるの?w 見た目だけじゃなく、演技もいつしかアンチエイジングに…。

秋月さんについて、ラフカディオ・ハーンが称した「神のような人」をナレーションが言う。すごく印象深い形容だから、取り上げてくれたのはうれしいようで、ひっさびさの再登場でいきなりそんな桁外れの表現をされると、やっぱり浮く。会津時代の秋月さんに神の片鱗はなく、むしろどこか不器用な感じ、朴訥とした感じが魅力だったのに。「神のような人」を感極まらせた、ということで、襄の「スーパーゴッド」感を出したかったのだろうか?

いきなり同志社の仕事をガンガンやってるっぽい覚馬。今どういうポジションなのかわからない。校長代理なんだっけ。普段はかかわってる様子がほとんどないのに、京都府顧問を辞めるとか、襄が不在とか、作劇上の都合で唐突に同志社の重鎮扱いしてるような。

八重と姑とがふたりでテーブルについてる場面に漂う「人間関係の希薄」感がすごい。襄先生の募金活動に帯同している小崎くん。こちらも再登場はうれしいんだけど、今どういう立場なんだっけ? 大磯に駆けつける徳富。気鋭の言論人で自分の雑誌、自分の仕事もあろうに…って思うんだけど、そこはあんまり気にならなかった。昔の人って本当に精力的に動くものだから。徳富も小崎もとても童顔な人を配役してるのはわざとなんだろうな。彼らが単体で大きそうな仕事をしていると「こんなひよっこで大丈夫なの?」(by 小雪 to 松山ケンイチ)って思うんだけど、襄と一緒だと、「偉大な先生の弟子」って感じで、雰囲気ある。

襄を思って祈る人々。祈る姿ってそれだけで尊いなーという感情は想起させるものの、このドラマではもやもやも拭えない。敬虔なキリスト教徒が祈っているというよりは、普通に日本人的な、「苦しいときの神頼み」に見える八重さん。襄を蔑ろにしていた外国人教師たちは、どういう思いで祈ってるんだろう? ドラマの描写の外でいつのまにか和解してたの? 校長としては無能だけど人としては良い人物だから? どんな人間であれ主の元に行こうとしている人のために祈るのがキリスト教徒としてのつとめ? 

重病の床に駆けつける八重さん。襄が驚きのあまり発作を起こしてポックリ逝かなくてよかった…。結局、このドラマでのキリスト教とは何だったのか。聖書を読んでほしい、と言う襄に違和感はなかった。ふたりきりになってから、「心残りは八重さんを残していくことだけ」と言ったのは、聖書の一節を聴いて、「キリスト教徒としては、主がさだめた寿命の中で最善を尽くした」と、とりあえずケリをつけて、個人に戻ったってことなんだろう。

で、「私たちは神様の絆で結ばれた夫婦なんだから」と言うわけだが…。神様の絆、そんな言葉が口をついて出る裏付けを八重に感じないんだよね。「犯した罪も」っつーのは何のことだ。銃をとって戦ったことはやはり「罪」だというわけか。「罪」に兄嫁を追い出したことは入ってますか? 不遇に喘ぐ前夫を、彼に言われるままに見捨てたことは? とか、いろいろ頭をよぎる自分が悲しい…。

何もかもを一緒に背負い、愛でみたされた夫婦。そこまでの絆を、ドラマでは感じられなかった。台詞がいちいち空虚に響くわ…。これ、いちいちあげつらってケチつけてるんじゃなくて、それが、すごく、すごーーーーーく、残念なんです。ずっと見続けてきた視聴者として。大人同士の、すてきな「同志」の夫婦の姿が見られると期待してたからさー。

「狼狽するなかれ、グッバイ、また会わん」。襄が臨終の際に言ったとして有名なこのセリフ。ものすごくかっこいいけどものすごく難しい演技になると思う。かっこよすぎて浮くよね、普通。それがかなり自然に感じられたのが良かった〜。ふたりになる前に聖書を読むところがあったのが(史実ですか?)、「狼狽しないでください」の自然さにひとやく買った気がして、ここは脚本演出グッジョブだと思います。襄は、命の終わりは神が決めたものだからと、サッカーの長谷部さん的に言うと「心を整えて」逝こうとしてるんだよね。だから「狼狽することはない」と。「神様の絆で結ばれた夫婦だから」また会える。また会えるんだから、狼狽することはない、と。

あの有名な決めゼリフ(違)がすんなり入ってきたのは、とてもうれしいことで、つまりここはうるうるしてました…。信仰心からではないけれど、私も将来、かけがえのない人と別れていくときには、「また会いましょう」と別れたいなあと、なんだか、思ったのでした。

で!

一瞬で葬儀に! まあ、それはね。八重の視点として、悲しみで呆然自失してる間に葬儀になってた、という「時間の感覚の喪失」って感じの演出だと理解できんこともない。葬儀の演出は好きだった。ものすごい雷雨でね。大勢の生徒たちが集まっていて、幟みたいなのが、いくつもはためいていて。誰からともなく讃美歌を小さく口ずさんで。出棺、というところで八重がすがりつくのではなく、泣き崩れるのでもなく、ただ口を引き結んだまま、寄り添って。

で!

ものすごい性急さで赤十字話へ! や、確かにこの間、3か月しかないんだから短い月日ではあるのだけど…。あまりにも、襄の死の余韻がなさすぎない?! 主人公の夫よ?! もう少し浸らせてくれませんか…。視聴者としてついていけまへん…。

「間髪入れず前に進むハンサムウーマン」の描写としてふさわしいのだろーか? でも、私にとって八重さんは別にハンサムウーマンじゃないもん。「守られるような女子じゃない」って自分で言ってたけど、かーなーりー、守られて生きてるのでは?と思っちゃってるし。ドラマの前提にね、ついていけてないから、そもそも…。

もはや60歳も超してるだろうに、杖がめりめりとめり込むって、あんつぁま、どんだけの力なのww や、立ち上がるのといい、比ゆ的表現なんだろうけどさぁ…なんか、あまりに唐突で、オーバーで。あんつぁまは何度も、立ち尽くす八重に道しるべを示す導師さまみたいな役割を果たすんだけど、なんかそれも変わり映えのしないリピートだなって思う。ドラマ中の覚馬は襄以上にかわいそうかも。あまりに都合のいい扱い。

八重さんは立派といったけど、大山の屋敷の中は確かに巷間伝わるとおり、悪趣味に見えましたw 巌が国防の危機についてチラッと語りましたけど(これまたとってつけたような場面…)、篤志看護婦が、「時代の先進」「尊い精神」っていうより、どうも有閑サロンに見える。まあ実際こんな感じだったのかもしれんけど、ドラマ的に、そう見えちゃうのはどうなんだ。籠城戦での八重の強さを軽やかな口調でユーモアさえ交えて口にする捨松。あれは「罪」なのか「志にもとづく武勇」なのか、いったいどう捉えたらいいんでしょう…。

梶原平馬の死を山川家に伝えに来る水野貞。こちらも秋月さん同様、唐突さは否めないけど、まあ、京都に軸足を移した八重が主人公である以上、こういう「説話集」的な感じになるのはしょうがないのかな。

平馬とテイがどんなふうに夫婦になったか…までは時間がありませんでしたね。平馬が、陽の目を見ないままに生涯を終えながらも、北海道で子どもたちを見る目がきらきらとしてたのが救いってとこか。でもさー、髪とか身なりとか、あんなにボサボサじゃなくても…。貧しさの表現というより無精者に見えて…。戊辰戦争直後ならともかく、もう長い月日が経って、新しい家族ももった(テイとの間にも子どもいるよね?)んだからさあ。

浩の、「責任は十分に果たされた」って台詞にも作り手の言葉選びの曖昧さ、有耶無耶に事をおさめようとしてる感じがして、どうかと思った。何をもって責任を果たしたというのだろうか。それ以前に、責任を果たしたということは、「責任があった」と認識しているということなのか。戦争を起こした責任か? 戦争に負けた責任? このドラマでの会津戦争をどう捉えたらよいのか、京都編が始まってからまったくわからなくなっている今、小さなセリフでも引っかかる。

MEGUMIのテイさんが何だか婀娜で、教育に尽くした謹厳な女子、て感じはなかったなー。初登場のときの硬さのほうが良かったな。二葉さんと似た硬さを漂わせてくれたら良かったんじゃないかなーなんて。あの人形の絵でまとめるのは、まあ、そうだよねという感じ。それを受けて、二葉さんが「その息子は無事に育って、今○○をしています」てな台詞があったら、大団円〜って雰囲気になったと思うんだけど、この時期、その子は特に大成してないんだっけ?

月替わりのオープニングも最後のバージョン。傘でまとめるか〜。今週は会津人たちのクレジットがたくさんあったのもあって、顔がばばばーーーーっと変わっていく映像が久しぶりに流れたとき、ちょっとぐっときてしまった。すっかり文句ばっかり言うようになっちゃったけど、今年の前半、「八重の桜」すごく好きだったんだよなーと思ってね。それを作り手みずからが汚していくような気がするとこに、一年間の視聴者の深い悲しみがあるのよね。