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『社会の抜け道』を読んで愚考するのこと(4)

二項対立に見えているうちは、まだ考えが煮詰まっていない、ってことはあるんだろうね。あ、この場合の「煮詰まる」は「行き詰まる」ではなく「深まる」みたいな、本来の意味のほうね。逆に言うと、最初は二項対立から始まる、ってこともあるのかもしれない。「何かがおかしいぞ」という感覚を追求したり、その対象を観察したりする段階では、どうしても二項対立のようなものになってしまうかもしれない。真剣にどちらかにつくことで、そちらがわの状況や意見に深くコミットする、という。

だから、自分や人が二項対立のように物事を見ていることがあれば、「自分/この人は、この件について初期段階にある」って認識してみるのはひとつの手かもしれないな。

まあ、そこから全然進歩しない場合も、往々にしてあるけどねw 思考停止して停滞することに疑問を感じないってパターン。それは、「わかりやすいものに飛びつくこと」「熱狂したがること」の亜種ともいえるかも。対立構造に持ち込んで相手をdisって自己正当化する、し続ける。そのほうが楽なんだよね。

で、自分が何かについて「二項対立の時期を突破するぐらい考えている」場合、「考えない人」に苛立って否定したくなっちゃうんだけど、それもまたひとつの二項対立(「考えてる/考えてない」って構図)に陥ってるのかな、と、この本を読んで思ったw 

それ以前から、最近何度かつらつら思う機会があったんだけど、たとえば大河ドラマについて(…と、突然、ぐっと手前味噌な話題になりますがww)ネット上で感想とかつぶやいてると、「歴史に詳しい視点からの感想や批判は窮屈」のような反応があったりする。ほかにも、時事問題にせよ、子育てにせよ、興味関心の範疇についてつぶやきながら、自分でも「なんかエラそうだよなあ」って感じることがある。

「自分はこう思う」と表明するのは、そうじゃない考えを否定するか、少なくとも劣後させているのと同意味だったりする。異なった考えの人だけでなく、「その件について特に意見のない人」も戸惑わせたり、不快にさせたりする場合がある。圧迫感を覚えさせるというか…。センシティブな内容を書けば、読み手(そうそう数はいないがww)の反応はもちろん気になる。「表明の仕方」に気を配っているつもりではいても、未熟な身だし、ネットって、前後の文脈すっとばして受け取られることもあるし。

「考えているイコール高尚」だとは思ってない。山田詠美の『ぼくは勉強ができない』で、いつも哲学的命題ばかりについて口にしてすかしてる級友がサッカーで足を骨折して痛みに悶絶している最中に、主人公が「いつもの哲学はどうした、虚無は、不条理は」と茶化す、ってシーンがあった。あ、20年前ぐらいの小説だけど面白いのでおすすめです。(つづく 次で終)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)