『八重の桜』 第45話「不義の噂」

画づくりがとてもきれいだし、役者さんの演技がすばらしい。お話も、この一話を見たらまとまっていたと思います。特に時栄の視点に立てば。が、んがっ。1月から見てきていると、大河ドラマの中の一話をまるまるかけて、しかも大詰めに差しかかってきたこの11月のこの45話で…という目で見ざるを得ません。「終」マークに「こ、これでええのんか?!」と似非京都弁で叫んだのちがっくり肩を落とすの巻、です…ひたすら鬱な話でした…。

あ、この回、「青木に言い寄られ(て手を握られる、抱きすくめられ)る隙があっただけで実際には何もなかった」説と捉えている視聴者の方もいるようですが(視聴者が望めば、その解釈もギリギリ成り立つように意図的に作劇したのだと思いますが)、私としては、「不義はあった、しかも何度も」という説で描かれたドラマだと解釈し、その前提で書いてます。史実(史実っていうか個人の人生だがw)ではどうかわかりませんよ、ドラマの中での話ですよ。

そだ、あと、「史実では時栄は妊娠してたはずだ」とお怒りの向きもあったようですが、そのソースは小説だから、徳富蘆花のw 「久栄から聞いた話をもとに書いてるんだから史実のはずだ」って? や、どこまでいっても小説は史料ではないww むろん、「史実かどうかわかんないから」ってわけじゃなく、ドラマのいろいろな都合上、妊娠させないほうがベターと判断しての妊娠展開なしだったとは思いますが、それ自体は史実無視にはあたらないと思ってます。

さて。

「旦那様の中にずっとうらさんがおんのや、年も取らんと綺麗なままで」「うちはうらさんとは違う。生身のおなごや。きれいなままでは生きられへん」「罪深いおなごや…」

この回の時栄さんのセリフを聞いてると、な、生々しい! これ絶対、不義あったでしょ。しかも複数回。多少言い寄られ手を握られ抱きすくめられて噂になったからって、ここまで罪の意識もたないよ。いくら名士の夫の名誉を傷つけたからって、そういう反省の仕方じゃないもん。

「夫の胸に棲み続ける前妻への嫉妬に苦しみ、私だけを見つめて激しく求めてくる男によろめいて…」今回だけを見て、そういうふうに(だけ)解釈した人もいると思う。実際、時栄のような境遇(後妻、連れ子や姑と同居、夫と親子ほど年が離れていて夫は老境。やがて若い男に転ぶ)は、時代小説なんか読んでると、しょっちゅう出てくるもので、普遍的に時代モノのドラマになりえる設定&展開といえる。

が、んがっ。そんな「よくあるメロドラマ」だけなら、わざわざ45分使って取り上げてんじゃないよ、大河ドラマの、この押しつまってきた45話で…って思うんよね。伊藤博文なんか、初代内閣総理大臣に就任したってのに、一言も喋れずにカメラ切り替わったんだよ(ウケたww あれは笑わせどころだったのか?ww)。

夫との夫婦生活がなくなって久しそうなのも(アバンタイトルで、大垣屋が「私もすっかり老いぼれた」的なことを喋ってたのは、イコール覚馬の上にも歳月が流れた…って示唆ですよね? てか覚馬はどうして老けメイクしないんだ。白髪入れて!)、寡黙で仕事ばかりの夫に前妻の影を感じていようとも、自分が働きづめなのも(これもドラマの謎設定なんですけどね〜。確かに時栄さんは働き者だったにしても、名士かつ体の不自由な覚馬がいる京都の山本家に“おなごし&おとこし@ごちそうさん”がいなかったわけはなく。だって、会津の山本家にすらいたんだぞ)、本来ならば時栄は「そういうものだ」「しかたがない」と受け容れられたのかもしれない。

それができなかったのは、ズバリ八重がいたからでしょう? や、史実は知らんよ。でも、ドラマ的には断然そうあるべきじゃない? てか、そういうフラグはこれまで地道に立ててきてたよね? 「女紅場の仕事が楽しいと言う八重」「襄のパートナーとして肩を並べいつも仲睦まじい八重」「てらいなく新しい生き方をしている八重」「書生を居候させてと頼んだくせに世話もしないで自分の仕事ばっかりやってる八重」などなど、時栄さんに目撃させ続けてきたわけじゃないですか。

時栄は何も八重みたいな生き方をしたいとは思っていまい。むしろ従来どおり、穏やかに慎ましやかに、影ながら名士・覚馬を支える役割で満足だったはず。そら倦怠期っていうか女として葛藤する時期もあっただろうけど、自然と乗り越えられた可能性は高い。だけど八重がそこらをドサドサ走り回ってて、否応なく目に入る。そこで、「妹には自由であれと言っておきながら、自分には忍従を強いてる!」ていう青木某のセリフが出てくるんですよ。時栄は否定してたけど、無意識下にあったその思いが、種類は違えど、やはり劣等感に苛まれている青木某には伝わったわけですよ。

かつて女紅場の女学生たちが「ドリームって言われても困るわ〜」と話してたとおり、時栄も、夫や姑に仕え子育てをして…という以外の生き方なんて知らないし、考えもしなかったはず。開明派・覚馬の妻にならなければ。その教えをのびのびと実践する八重の姿がなければ。(視聴者から見ると、ドラマの八重はたいした仕事をしてるわけじゃなく、どっちかというと妻として嫁としての役割しか見えてこないんですが、時栄の目には十分すぎるインパクトがあったはず。)

明治は、新しい時代。武器をとるのではなく言論で戦う時代。誰もが夢を語ることのできる時代。焼野原から蘇り、栄える京都。あふれる西洋の美しい文物…。様々な「新しさ」「明るさ」や、時代を切り拓く挌闘が描かれる一方で、新しい時代についていけず苦労する会津人や、敢えて過去を忘れようとしない浩、そして、「新しい価値観を間近で見たからこそ」自尊心を揺るがされる時栄がいる。青木によろめいたのは時栄の弱さなんだけれど、その背景には時代の影があるんですよ。そして、彼女の不祥事によって、明治の光の中にいた山本兄妹が、足元にできていた思わぬ「影」に覆われ、当事者として体験する…。そういう陰影がほしかったんですよ。

山本兄妹の側から見れば、まず、覚馬。彼が時栄にとって良い夫でなかったのも、そもそもうらとの離婚、時栄との結婚の経緯がアレだったのも、確かに問題っちゃ問題。でもあの時代、襄みたいに「八重さんの隣が一番です」なんてデレる男は宇宙人。男は黙って黒ラベルを飲んでるわけだし、時栄を孕ませたころの覚馬は故郷が滅ぼされようとしているのに何の役にも立てないどころか目や足を蝕まれるという人生のどん底にいたわけで、そこで時栄のあたたかさを求めたのも「むべなるかな」と私は思ってます。

そういう行動に走らざるを得ない状況で生きる、ということのすさまじさを思い、そのすさまじい状況から、体をあたためあうことで生き延びて立ち上がる人間の生命力を思うべきだと思う。もちろん覚馬はそのことに罪悪感をもっていて、彼の寡黙は大きすぎる罪悪感の裏返しだと思ってる。

だから時栄が不倫に走ったのを知った覚馬(あくまでドラマ上の覚馬の話をしてるんですよ)は、裏切られたショックというより、新たな十字架を背負ったんだと思うんだよね。会津時代の罪悪感をはらうために京都で一所懸命やってきたけど、結局、会津から目を背けてきたツケ、仕事ばかりしてきたツケが時栄に回っていったことを思い知らされたんだと思う。うらを捨てて時栄に走った因果応報、みたいな解釈をしている人もいますが、私は違うと思う。「本当に守りたいもの、守るべきものを守れなかった」のは覚馬にとって二度目。会津、そして時栄。立ち直ったつもり、新しく始めたつもりでいたけれど、実はまた繰り返していたんだ。そういう痛撃、無力感、罪悪感だと思う。

「何もなかった」も「罪を悔い改めるために洗礼を受ける」も、そして「騒ぐな」「暮らしに不自由はさせない」も、そういう認識からのセリフだと解釈してる。今回の覚馬の対応には、まあ、満足です。基本的に“だめんず”だなあとは思うけど(私の脳内補完はあんつぁまに優しいなw)。

問題は八重ですよ〜。作り手は「八重が時栄に与えてきた苦痛」について、フラグを立てつつも結局きちんとした形で回収しなかった。だから、八重は完璧に傍観者になってしまってる。あまつさえ、名誉を汚された兄のためだけではなく、夫の大学設立の邪魔をした、という個人的理由(すごい利己主義者に見える)で激しく糾弾する側に立つ。

許せない、という結果に終わっていいんですよ。実際、時栄が家を出たのも事実らしいし、「追い出したのが八重だ」という説は強いんですから。「許せない」に、ドラマとしてどういう意味づけをするかっつー話です。大垣屋に乞われて、八重は一度は許そうとしますね。時栄の来し方を聞き、彼女の境遇に思いを馳せた。話をしてるふたりに、女学校の生徒たちの歌う讃美歌が聞こえてきます。ドラマではかつてキリスト教の「許し」の概念に触れたことがありました。「敵を愛せ」「右の頬を殴られたら左の頬をさしだせ」。八重は洗礼を受けたキリスト教徒です。

時栄の告白に頭に血を上らせ、怒りにまかせて家から追い出す。洗礼を受け、新時代を切り拓いてきたと自負する八重の、それは挫折のはずなのです。姦通した女に石を投げるのはキリスト教徒のすることじゃないよね。許せなくてもいい、許せない自分に気づいて、呆然とするべきだった。(もちろん覚馬が不問に付そうとすることが前提ではあっても)「許すべきだ、と言う完全なキリスト教徒の襄」との対比も描いてほしかった。「襄のライフは私のライフ」なんて言いながら、襄の考えを許容できない自分がいるのだと。

時栄の苦しみを理解できない自分、自分の幸せやポジティブさが心ならずも人を傷つけることもあること、新しい時代は、光だけでなく、同時に新しい影も生み出すと気づいてほしかった。だからこそ人は許し合い、癒し合いながら生きていくんだ、生きていくしかないんだと。あるいは、心の底では許したいし、許してしまっているけれど、兄の名誉や夫の学校のために時栄を犠牲にするしかなかった、という展開でもよかった。八重もまた、新しい時代を切り拓くために罪の意識を背負うという図。西郷や、覚馬が背負ってきた罪の意識を。

どちらにしても、葛藤や内省が必要だったと思うんです。八重にはずっとそれが欠けてるんです。簡単に夫と同志になり、簡単に謝って、簡単に腕相撲し(笑)、簡単に許さない決断をする。そんな簡単なドラマに感動できない。「許す」ことや、立ち直ること、新しい時代を生きることの複雑さ、深みを伝えてほしいんです。でないと八重に感情移入できない。八重は主人公なんですよ?

時栄の個人的問題。覚馬と時栄の夫婦間の問題。それだけの話にしちゃダメなんですよ。史実を忠実になぞれと言いたいんじゃない。人物や展開の裏に、「その時代、その場所」という制約や特殊性、同時に、古今東西変わらない人間の普遍性、その両方を描くことのできるのが歴史ドラマの面白さだと思ってるんです。そういう創作がほしいんですよね。久栄のために「出てけ!」と罵る八重の悲しみ…とか、ちゃんちゃら薄っぺらい茶番だよ。ほんと、45分終わったときの徒労感、「なんだこれ」感、ハンパなかった。

来週は久栄ちゃんの駆け落ちとのこと。今回のエピソードの続きとして扱われるのならば、そこで何らかの気づきがあるのかもしれない。それにしても、こんなに時間をかけるとはねぇ…っていう憾みは残る。いろいろ描いてほしいことはたくさんあったのよ…。

でも、冒頭で書いた通り、シーン単位で見ればとてもすばらしく、見ごたえのある、さすが大河だなあというところは多かったです。八重と大垣屋が話すシーンとか。松方さん魅せてくれた。厳かな讃美歌が聞こえてくるのも。降る雪も。新島邸の、あたたかで幸せそのものの光景も。ものすごい集金能力のある襄とか。しかも「伝道と大学設立、目的はわざと曖昧にして寄付を募った」とか、なにげに現実的手腕をもってる! その辺をもっと見たかった!

もちろん、なんといっても時栄。見えない覚馬を前に、目を潤ませながらも涙声にならないよう、小さく短く「へぇ」と応える姿。八重の「これまでありがとう云々」を聞く複雑な表情。そして八重との対峙からの「離縁してください」と、久栄との別れ。あふれだす思いを押し殺した「幸せにならないかんえ」にぐっときたわ…。谷村美月ちゃんのすばらしいキャリアとなったのは、「八重の桜」の功績のひとつですね。

八重も、大垣屋との話、時栄との対峙、良い演技だった。綾瀬さんはほんとうまいのよね。特に「なんてことしてくれたんだし」と怒りに震え、「出てってくなんしょ」と憎悪を込めた表情から、即座にがば、と伏せて「お願いします。兄と別れてください」と頭を下げる…って、セリフといい、演出といい、私は好きでした。もう、一瞬で、他人モードになるんだよね。乞うてでも別れてもらう、という。八重の激しさがよく表れたシーンだと思った。あれこそが八重の本質。

逆に言えば、時栄は、「不義が真実と知れば、八重は絶対に許さない」とわかってたんじゃないかと思う。それで、無意識のうちに告白してしまった。傷ついた自尊心と、拒めない弱さ、夫を裏切った罪の意識を抱えたまま山本家で過ごすことに、時栄は限界だったのかも。だから見方を変えれば八重は時栄を解放したのかもしれない。自分が悪いと思っている覚馬には不問に付すという選択肢しかなく、それでは時栄を解放できないから。

でもそれにしたって、八重は自分の「許せない性分」、明治になろうと、再婚して洗礼を受けようと、ちょっとやそっとで変わらない、その良くも悪くも激しい本質と向き合い、戦いながら生きていこうよ。と思いますね。来週に期待(と書いてみる)。