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『八重の桜』 第44話「襄の遺言」

リアルタイムでは日本シリーズ見ながら酒飲んどりましたー。東北の皆様の多くも、もちろんNHKではなく、テレ朝(だったっけ?)をごらんになってたことでしょう。日本一が決まったあと録画を見るつもりだったんですが、「まーいっか、どーせいつものクオリティだろ・・・・」と思うとなんだか萎えて、寝ちゃいましたね。(なんてイキッてみましたが、翌朝起きてすぐに録画スタートしたアカウントはこちらですwww)

先週、予告が流れた直後から、ネットでは「※襄先生の死ぬ死ぬ詐欺です」と親切な解説が流通しておりましたので、アバンタイトルの「今夜が峠」も至極平静に見ておりました。襄先生はこのドラマの癒しなので長生きしてほしいもんですね。…って、新島襄が癒しキャラにとどまるのも、襄死後の八重さんの長い人生がはしょられるのも、ドラマ的には問題なのですが、この期に及んで、さすがにドラマに期待はしてないんでね〜。

「今日はいい天気なのに雷が落ちそうですね。女今川を読んだことありますか?」「そんなくだらないもん読みません」のくだりは、巷間伝わるエピソードですよね。機嫌の悪い襄先生キターーーー!(・▽・)と、みなぎりましたwww 4話でしたかね、時尾ちゃんとふたりで手をつなぎながら女今川の話をしてたの、ここで回収ですね…っていうか、このシーンありきでの、4話での言及だったんでしょうね。

渡航準備で、八重さんにあれこれ言われて「今! 今入れましたから!」となぜか超焦ってる姿とか超かわいかった(*´д`*) その後のハグも、もはや若くも、新婚でもない夫婦の労わり合いっぽくて、良かったと思います。実在の八重さんは、ある意味ドラマの八重さん以上にアクの強〜い、愛されキャラとは程遠い女傑だったようですが、新島夫妻のおしどりっぷりもまた真実だったようで、「ハタから見てるとよくわかんないけど、この人らは、これはこれで、幸せな夫婦だったんだろうな」って感じが、妙に伝わるシーンでした。

先週ラストで触れられた徴兵令が襄先生を悩ませるの巻。うーんやっぱりどうも見せ方が…。これは、もろもろの事情で手いっぱいだったり時間が足りなかったりで、歴史の流れと登場人物たちとを繋げて見せるところまで手が回らないのか。あるいは、「さわらぬ神に祟りなし」「臭いものには蓋を」的に避けているのか。はたまた最初から何にも考えてないのか…。

世の情勢について触れるシーンはチラチラとあるんですけど、繋がりに乏しいんですよね。作り手が、幕末に続く明治という時代に全然向き合っていない。権力側をやや貶めがちなのは、「権力=悪、市井=善」と単純化して視聴者におもねるという、大河の「悪しき伝統」に則っているのでしょうか。制作局的に縛りがあるんでしょうか。

幕末からの日本はつねに外圧に晒されていて、維新もそれありきだし、新政府の政策も「時代にふさわしい、強い日本」をつくるためのものです。「時代にふさわしい、強い日本」とは、すべからく「外圧に堪えうる日本」ということ。でなければ、日本そのものが遠からず滅ぼされてしまう。だから、戊辰でやむなく会津を犠牲にした、というのが、このドラマの薩長(特に西郷)の論理だったはずです。そして西郷自身もまた「新しい時代のために」人柱となって死んでいった(ですよね?)。

その論理を延長していけば、西南戦争で内乱の歴史に終止符を打ったがゆえの自由民権運動だし、政府の政策…府議会設置、国会開設、憲法、徴兵令、それらも基本的にすべて「強い日本をつくるため」のものです。覚馬が京都の都市化をすすめたのも、府議会議長として槇村と対立したのも、また襄が人材教育に力を尽くしたのも、その範疇の中の一部分、という側面があると思うんです。

政権内の人物が主人公でないからこそ、単純に政権や政策を敵視するのではなく、そのような俯瞰を示すことが、物語のスケールの広がりに寄与すると思うんですが。ドラマでは、個々の政策、個々の権力者と、場当たり的に敵対したり、迫害されたりしているように見えるので、「京都史、学校史っていわれてもねぇ…(ショボくて)」って思われるんですよね。

だからといって、それらの政策を是とする視点からのみ描くのはもちろん偏っていると思いますよ。政策を遂行していく中では、当然、翻弄される人、取り残されていく人など犠牲も出るはず。新しい時代を切り拓く過程では…というより、世の中には必ず光と影の側面、両方がある

新しい時代に希望をもつべく、「光」を見るべく働いた…働けるだけの志と才知と運とを持っていたのが、このドラマでいえば覚馬や襄にあたります。その光を浴びつつ、彼らをつぶさに見ていたのが八重です。彼女が主人公ならば、歴史的な何かをなす人物でなくとも、変革の時代を彼女なりに懸命に生きていたことだけで、本来、ドラマの作り手からも受け手からも敬意を払われるべきです。一方で、一生、日陰者として生きざるを得なかった人や、困窮のうちに生涯を終えた人もいる。後世にドラマを作る人たち、またドラマを見る私たちは、その両方に心を寄せるべき存在です。

豊富な人脈があり、西欧社会や新しい学問にも通じていた覚馬や襄には、世の情勢も、政策の目的も、よく見えていたはず。彼らの大局観に、ドラマで触れてほしいもんですね。教育事業に携わる者として(もっといえば主演級のキャラ補正ゆえでもいい)、政府のさらに先を見ていてもいいのです。

今回でいえば徴兵令。前回の帝国大学で優秀な官僚を…もそうですが、伊藤のキャラ演出も手伝って、「悪しき政治」として捉える視聴者がいる気がして、それはどうかな、と思うんです。それに、襄先生は「私学の学生にも徴兵猶予を、学ぶ機会を奪い取らないでください」と訴えるけれど、ややもすれば、「おまえとこの学生だけ助かればいいんかい」って思えてしまいませんこと? 官立にしろ私学にしろ、あの時代、大学に行ける若者なんて一握りですよね。

覚馬や襄は、徴兵制そのものについては是だったのか非だったのか。たぶん是だったと思います。そこを明らかにしないので(積極的に非を唱えないということは是だという描写のつもりかもしれませんが)、徴兵猶予だけ叫ばれても、なんか薄っぺらく感じるんです。「百年先、二百年先のために今、始めなければ」「国家に役立つ、良心をもった人材を」など、襄先生は教育論をたびたび述べますが、「それはどのような人材なのか」「なぜ、国家に役立つ人材が必要なのか」というのが、いつまで経ってもリアルな部分で見えてこないんですよね。

「(戊辰戦争のような)内戦がもう二度と起こらないよう…」とか「国家の都合に左右されない人材を…」とか言ってたこともありますが、内戦は避けられても外圧はそう簡単には避けられないし、明治政府は現段階で、戦前の関東軍ばりに暴走しているわけではありません。それに、徴兵制=国民皆兵には、四民平等の裏返しという側面もあります。武士という特権階級がなくなり、憲法によって国会が開設され市民が政治参加できる。その反面、国防にも市民が携わらなければならない(もちろん、実際は、制限選挙ですし、高いお金を納めることで徴兵猶予できたりと、まったく平等というわけではないですが)。

そういった面に、覚馬あたりが言及してほしかったですね。国会も、徴兵も、世界の中の日本としての時代の要請なのです。政権サイドだろうと、京都サイドだろうと、会津っ子として苦労していようと、みながみな、それぞれの立場で懸命で、なのに報われないこともあれば、逆に、みなが懸命だったからこそ未来につながったこともある…そんなドラマであってほしかった。特に京都サイドと政権サイドは、各論で対立することがあっても、総論としては新しい日本をつくるという同じ船に乗っている認識のもとで、「教育はさらにその先を見る」って書き方で、主人公サイドageしてほしかったもんです。

だのに、実際に描くのは、相変わらず校内のもめごと…。確かにアメリカンボードと自身の教育理念、あるいは政権による規制との間の葛藤は、生涯、襄を悩ませ、寿命を縮めたのだろうと思うのですが、そればっかりやられると、またかと思うわけです。何年やってんだ、と。同志社を東大に負けないようにとか、田舎のレベルじゃついていけないとか言ってますが、教育課程について延々とゴタゴタ内紛してるような学校じゃ、たとえ東大の教授が前髪クネ男だろうとw 足元にも及ばないだろうなと思わざるを得ません。

襄先生も、命がけで外征するのもいいが、足元固めてからにしてよと思っちゃいますし、なんつーか、ドラマを見てると、優秀な学校と社会的に認められてないから国内で資金集めもできないんだろうなーとか思っちゃうんですよね(実際はそういう簡単な事情じゃないんでしょうが、ドラマの描写を見てると…)。八重も、こんなときこそ得意の腕相撲でも土下座でもなんでもいいから、アリス先生たちを煙に巻くなり折伏wするなりしたらどーだね、と思うしね。舎監のおっかさまが責任をとるって、おっかさまは立派な人だが、どー見ても根本的な解決じゃないし。

俯瞰の枠組みがないから、個々のエピソードが、必要以上に矮小化して見えてしまうと思うんです。

容保と照姫の再会にしても、またまた「救済したつもりかもしれんけど視聴者は引いてます」パターンだったのではないでしょーか。や、最期にお見舞いに行ったぐらいのことは、ほんとにあったかもしれんので、創作として「あり」な範囲だと思うんですけど、その中身!

  • 簡単にボディタッチさせんな!! 「照姫咳き込む → 容保思わず腰を浮かして手を伸ばす → 触れるか触れないかの瞬間に、控えていた侍女がお支えする」ぐらいの品の良さで頼む!
  • ご宸翰披露とかあってはならないことだから!! ご宸翰の存在は会津人のよりどころだけれども、だからこそ簡単に披露しない! 容保が、生涯竹筒に入れて首にかけていたというご宸翰と御製。けれど竹筒の中身が何なのかは、生涯、家族にすら明かしていなかったと言われているじゃないですか。創作するなら、聡明な照姫が「今でも肌身離さず持っていらっしゃるのでしょう…」みたく察したことを言って、容保が頷いたか頷かないかわからないぐらい微妙に頷く、ぐらいで、高貴なふたりの精神的紐帯は示せたのではないかと。
  • てか、どーしても側室や容大はじめお子たちの存在には触れないのね。勢津子妃も出ないのか…。なんか、そこに触れずに、照姫とのロマンス回収だけをやろうとする根性に浅ましさを感じずにいられない。

こんなとってつけたようなシーンよりも、明治の容保がどんな暮らしをしていたのか、これまでにもうちょっと見たかった。京都に舞台が移ったとはいえ、視聴者としては会津人の明治が気にならないはずはないし、そこは十分、フォローして、主題と絡めるべき題材だと思ふ。ただ、陸軍に出仕する浩や、東大教授のクネ次郎が、畏まって殿に付き従う様子には妄想がかきたてられました。明治17年。江戸は遠くなりにけり、な年代に思えるけれど、そうじゃないんだよね…。

会津と言えば広沢さんがまさかの再登場! …って、なんて置き土産してくれるんだーーーー! や、なんかね、確かに興味をそそられないとはいえない「不義の噂」事件ですけども、ここんとこ、ずーっと、このフラグ立てやってましたよね。で、次回、がっつりやるんですよね。あんなことこんなこと、もっといろいろ見たかったのに、結局時間を割くのが、前夫との再会(創作)、義姉との再会(創作)、義姉の不義疑惑(一部は創作だろう)…。創作が悪いって決めつけてるわけんじゃないんですけど、どーーーーも、納得いかん。

先ほど、襄や覚馬は「光」の中にいる、と書きましたが、その足元にできていた大きな影が時栄で、その影に覚馬(や八重)自身も覆われて…っていう話だと思います。そういう意味では必要な話だと思います。ここまでのドラマ全体の描写のバランスとか考えると、なんか腑に落ちないんだけどね。まあ、実際に見るまではまだわかんないってことで…。