『八重の桜』第40話「妻のはったり」

今日はところどころ面白かった。明らかにサブタイ「妻のはったり」の部分が蛇足でという、なんだかここまでくると笑える状態ww しっかし尚さんのときと同様、八重と襄とはいつまでも夫婦らしくならんな。夫婦には馴れ合いが必要なのだよ、馴れ合いが

放送終了後の自分のツイートです。

うーん、惜しい! 今回、いろいろ興味深いところがあったので、もうちょっと骨格がしっかりしてればと悔やまれます。てか、京都編はやはり、京都府史(に代表される地方史)と同志社史(に代表される近代学校史&宗教史)とを両輪として接視しながら、サドル部分としての中央政府史(ひいては世界史)を時折覗かせるつくりにしてほしかったと思いますね。それはじゅうぶん面白い、というかむしろ新鮮な大河になると思うのに!

や、それをやってるつもりなのかもしれませんけど・・・つまりそれをやりすぎると八重さんが「わだす、なじょしたらええんだべ」ってなるんで、八重さんを前に出そう出そうとしてるんですよね、きっと。つまり八重さん主役じゃなかったら(ry

ゴホ、ゴホッ。ひとまず今回は車輪の両輪とサドル部分が(曲がりなりにも)見えたのが良かったです。TL見てると、京都編を見ている人にも、リタイアしてしまった人にも、「議会史や同志社史なんて興味ない」とかってツイートが散見されますが、いち歴史ファンとしては、ほんとにもったいなく、残念に思えますね。そりゃ、人によって見たいものは中央の歴史だったり、特定の人物だったりいろいろですけど、私も明治政府のあれこれをがっつり大河で見たい気持ちはありますけども。

議会や、同志社。一見、地味な枝葉に思えるテーマも、背景を探れば、大きな時代の流れに行きつくもので、時代によって翻弄されたり、あるいは逆に、枝葉が時代に大きな影響を及ぼしたり・・・そういうのが、歴史を知る醍醐味であり、歴史を学ぶ意義だと思うんですよね。どんな事象やどんな人物も、その背景には時代がある。それは現代の、そして未来の様々な問題についても繋がることです。

会津という逆賊にされた国の中の、しかもよそ者ということでなかなか陽の目を見られず死んでいった尚之助。明らかに、彼の人生の背後には時代がありますよね。襄も、同志社も、京都府議会も同じなんですよ。会津のことだって、川崎尚之助のことだって、「八重の桜」が始まるまで、私たちの多くはほとんど知らなかったわけじゃないですか。それでも夢中になったわけじゃないですか。同じドラマなのに、今、扱っているテーマに乗れていない視聴者が多いのを感じるにつけ、この悲しみをどこにぶつければ・・・てお思います。せっかく、前半、潜在的な歴史ファンを掘り起こして惹きつけてきたのに〜。

今週は、「枝葉」がテーマでもシーンごとにはいろいろ面白かったんですよ。本来、おおもとの脚本家は周到につながりを考えてたんじゃないかと思うんですが…。

前回、府顧問を辞して悠々自適の身となったあんつぁまに、何やら公的な知らせが届いた模様。もう少しあとの時代なら徴兵の赤紙となる場面ですが、ここではもちろん違って、なんと選挙当選のご案内でした。えーッ選挙事務所でダルマ用意して、家族および後援者雁首そろえて待ってなくていいのーッ? 自宅でお茶でもすすってるところにもたらされる当選の報が新鮮すぎました。玄関(客用の公的入口)からじゃなくて縁側(家族や友人が出入りする私的な入口)に回ってもらって…て演出が細かかったですね。

しかも、立候補した覚えないし! てか立候補制じゃないし! すげー! 初期の選挙が制限選挙で、はじめは大人の男子のしかも一握りの高額納税者のみに選挙権が与えられたというのは中学校でも習うことですが、立候補制じゃないってのは初めて知りました。なんか逆に公平かもな。。。まあ、ごく一部の顔を見知った特権階級内で行うからこそできるんでしょうが。

選ばれた人々が、何をするやらわけもわからず議会に集まってくる、て描写も面白い。彼らは有徳者だったり権力者だったり財産家だったりだからこそ票を集めたんでしょうが、議会のなんたるかは知らないんですね。別に公民の成績が悪いわけじゃなく、そういう時代性ってこと。そこで登場するのが、そう、もちろんあんつぁまです! ひゅーひゅー! 我らがあんつぁまは西欧の議会政治にも通じていますからな、はっはっはー! ということであれよあれよという間に入れ札で(この投票用紙が紙じゃなくて木の札ってのも面白い)議長に選ばれて一番高いところに登壇します。ひゅーひゅー、あんつぁま、かっこいー! 

この一連の場面で、「目も足も悪い俺に、まだ働けと人々が言ってくれる」とか、「旦那様のこれまでのお働きのたまものです」みたいなセリフがあって、それらのセリフ回しはさすが役者さんたち、万感迫るものなんですけど、「何がどーしてこんなになるまでの功績をつくった?!」てのが、ようわからんのが、ほんと、惜しまれてなりません。それに「会津=逆賊出身」てことにも、今回、一言も触れませんでしたね。これは片手落ちというより、もはや意図的なものなんじゃないかな、おそらくおおもとの作者の山本さんというよりもっと上層部レベルでの。前回のコメント欄にも書いたけど、現代の視聴者への配慮…会津出身の方を抑圧したり地域的対立を生んだりしないための配慮なのか、そこらへんマイルドにしてるんですかね。まあ、結果的に物語の厚みを奪ってしまっているところあると思うんですけど。

実際、体が不自由な上に会津出身の覚馬が議長に選出されるってのはものすごいことですよね、50何人かの議員の中で、40何票も集めやがって、このぉ色男!(違) 余所者のくせに。なんたって千年の都、当時の京都の人ってやっぱり保守的・排他的なイメージあるじゃないですか。「よそのお方に指図されるやらごめんどす〜」ってイメージ(適当)。し・か・も、会津出身なんですよ。長州とか佐賀とかいう余所者じゃない。よりによって会津。めんどくさい仕事を押しつけられた・・・て面があるのかどうか知りませんが、やはり覚馬がいかに巨人であったか。人望面にしろフィクサー面にしろ、ここに至るまでの道筋は、ぜひとも詳しく見たかったですね、せっかくの西島秀俊なんだし!

で、もうひとつ悔やまれるのは、高島兄の槇村知事との対立の構図がわかりにくいんですよね。いえ、対立してるってこと自体は、熱演によってわかりやすすぎるくらいわかりやすく伝わってくるんですが、何をそんなに対立してるのか?てところをもうちょい詳しくやってよ、て話。

つまり本日のアバンタイトルが、高島兄さんと西光…もとい加藤さんが「清盛」を彷彿とさせる 暑苦しい 熱い顔芸を見せて盛り上げてくれた割に、いまいちインパクトが薄かったのがもったいない。外務省からの廃校通知とあんつぁまの当選通知をアバンタイトルにして、槇村−伊藤の凄み合いを本編に持ってきた方が良かったんじゃないかと思うんですが。

政府は府議会の設置に踏み切り、次は国会という段階。槇村のような藩閥出身の地方政務家は「無知な民に政治参加なんて」と憤り、その危険性を説きます。伊藤は槇村に言われるまでもなく、それぐらいわかってて、「選挙で大統領を選ぼうと言い出すってか」と言う。「そういう好き勝手を許さないのがおまえの仕事だろーが」って言い草まで含めて、含蓄のある良いシーンだったんです。

要は、政府はこの段階でも、「ひらかれた政治」なんて、まったく目指しちゃいないわけですね。伊藤がひとりで政府を代表する出演でしたが、「大久保さんが生きていればこんなこと」というセリフもあったとおり、大久保利通の後継者=政府の中枢としての描写ですよね。もちろん、伊藤はのちに初代総理大臣に選ばれる(選挙での選出ではないけど)伊藤博文なわけで、彼がこういう場面をやるってのも面白いですね。中央政治の描写としてはシンプルでも、これは京都編なのでしょうがないかなと思いますし、シーン自体は時代への批評性があって良かったと思います。

なんでイヤイヤながらも議会政治を始めようとしているかというところを、もうちょっと詳しくやってほしかったんです。自由民権運動の名称は出ましたが。猪一郎の登場以来、随時、新聞を扱っているのは面白くて、今回も、学生たちが新聞を囲んで「世論が世の中を動かし始めた」と言ってたのは面白かったし、あんつぁまが「これからは武器でなく議論で政治にかかわれる」と、議長演説する場面はなかなか感動的でしたが、幕末から戊辰(会津)戦争を経て、西南戦争をもって武力革命・反乱の時代に終止符が打たれ、今は言論で戦う世になっている…という一本の線をもうちょっと強調してほしかったですね。「おいがみな抱いていく」なんて言葉をわざわざ(浩をダシにしてまでww)西郷に言わせたんですからね〜。

議会設置のもうひとつの理由は、近代国家たる体裁を整えるためですよね。国力を増強し列強諸国へアピールしなければ、後進国とみなされ不平等条約もままならず、植民地支配の危険もあります。政府にとってはそれが最大の眼目です。槇村が覚馬を警戒するのも、同志社との結びつきがあるからだし、外務省が同志社に廃校通知を出したのもそういうことでしょう。(それにしても、覚馬が同志社に今なおどのような支援をしているのか、にもかかわらず、なぜ京都の選挙民たちは覚馬を選ぶのか、そこらへん、ドラマでは具体的詳細が不明なのも不満なり)

数回前に、あんつぁまが「西洋の文明は取り入れといて、キリスト教だけダメっつーのはおかしな話」と槇村を喝破する場面があったけれど、政府にとってはキリスト教だけがダメなのにはれっきとした理由があるのです。宗教というものは人の心を捉え、政治と分かちがたいもの。キリスト教を伝播しようとする輩は、列強諸国の触手の中で国家の独立を維持しなければならない政府の面々にとっては危険分子にほかなりません。

覚馬はそういうもろもろをもちろん熟知していて、そのうえで、議会政治を自分の戦いに利用する、っていう、清濁併せ呑む感、大物フィクサー感をもっと前面に出してほしい! せっかくの西島秀俊なんだし!

なんか、マッキーも、伊藤も、そしてわざわざ出てきた外務卿寺島宗則も、単に既得権を守りたかったり専横をふるいたかったりムシの好かないイヤな奴みたいに見えちゃって、もったいない。そら藩閥とか汚職とかがなかったとは言いませんが、彼らには彼らの志があり、なすべきことがあり、それは幕府を倒し会津を滅ぼした薩長や、西郷と決別した大久保の系譜ともいえるわけです。そういうことが際立つように描いてほしいものです。ドラマ前半ではそれができていたのですからね〜。

ていうか、山本さんはそうするつもりだったんじゃないのかな、と思うんですが。そら、尺の問題もあり、そう詳しくはできないにしても、そういうふうに解釈は可能な描写に一応なっているんだから、見せ方で、もうちょっと、いろいろなことが繋がって深みが出るように思うんですが。なんか、やたらとブツ切りなんだよなー。

今回のメイン、襄の同志社経営における苦渋にも、こういった背景があるってことが、いまいちわかりづらいんですよね。なんか、単に権力者のエゴや旧態依然のスタンスによる妨害にあってるように見えてしまって。後手後手にまわるっていうか何の具体的手段も持たず頼りなく見える襄なのに、セリフで一生懸命「襄は強い人」「信念の人」と持ち上げるんだもん。

国家を守り育てるための確たる方針としての政治圧力。そんな事情を斟酌せずただただ伝道の広がりを目指す外国人教師(資金は彼らの団体が握っている)。新しい国家に尽くす良心的人材を育てようとする襄…と思えば、板挟みになる苦悩を想像するのはたやすいし、ニッチもサッチもいかなくなって、ついに自棄的に自罰に至る…という展開だって良かった気がする。

なのに。なのに、なぜあんな嘘を・・・。あれ、ハッタリっていうか、単なる口から出まかせでしたよねww 

什の掟のある国で育っておいて、嘘をつくとは何事だー! …と、糾弾するつもりはないんですよね。掟によって戒められるのも、人間がふとしたときや追い込まれた時、大切な人を守るために虚言を呈してしまう生き物だという前提ありきですもんね。まあ、嘘をついてしまったあとで什の掟を思い出して反省するぐらいの姿は見せてほしいけど。ドラマを最初から見てきた視聴者を切り捨てすぎでしょー!

あと、キリスト教の伝道師的にも、嘘って良いことじゃないですよね? よくわからんけど。リンカーンの桜の木のエピソードとかもあるしさあ。八重が嘘を打ち明けたのを聞いて、「ほら、やっぱりあなたが私に勇気をくれる」・・・・・・って何だよ、その腰抜けのリアクションは!!! (ごめんなんしょ、という八重に、「え?」てポカーンとするジョー先生は問答無用にクッソかわいかった、何あれ飼いたい)

「八重さんに嘘をつかせたのは夫たる私の責任です。よって私を罰します」と言って、さっきと反対の手を杖で打ち据えるぐらいのこと、してくれなくちゃあ。要するに、嘘をつくならもうちょっと(ドラマ的に)面白くしてくれや、って話ですよ〜。自責の杖はほんとに起きた事件なのに、無理くり八重さんの嘘を絡ませる必然性が、作り手的にはあったんでしょうが、あてくしには伝わらず…。

だいたいその嘘がさ〜、「役人と戦ってできた傷」って、どう捉えていいのかわかんないのよ。「強い信念の人」と一生懸命にあちこちで夫を讃えながら、お坊さんたちに突き飛ばされ怪我をしても決してやり返さなかった(キリスト教的非暴力をあらわす描写でしたよね?)姿を知っていながら、なぜ、暴力的な嘘をつく? 無意識下では「ちょっとぐらいやり返せコンニャロウ」と思っているってことですか? でも先週はかなり平和的な人でしたよね八重さん・・・・。や、人間、葛藤や矛盾から逃れられないものですけれど、「古き良き会津の女であり、かつ近代人的自我も身につけつつあり・・・」みたいな複雑さ、深みを感じさせる描写になってないからね。ドラマを一話一話盛り上げるために(わたしは盛り上がれませんが)場当たり的に動いてるようにしか見えないからね。

以下も同じく放送終了後の自分のツイートです。

府議会史、同志社史部分は大して詳しくやってないのにじゅうぶん興味深い。中央政治をやれなくても面白く作ることはできるんだ。ただ、八重さん何したらいいんだろって感じにはなるけどw だからって無理くり嘘つかせんでもww

八重に特段の歴史的功績がない以上、襄存命中は夫婦関係が面白くないと。尚のときは、「襄が控えてるから綺麗事なんだな」って納得してたけど、いまだにこれだもん。相互尊敬が基底にあるのはいい。それだけしか見せてくれないから、てんで物足りない。恋に恋する少女のための枠か、大河は。

八重さんは現段階では狂言回し的役割に徹するのでいいと思うし、ていうか、W主人公にして、明治編は覚馬が主人公でも良かったんじゃないかと思うんですけどね。その相棒が襄、その妻が八重。無理に八重さんエピソードを作るから無理が出る。それでも八重でいきたいんだったら、やっぱり夫婦関係をもっと面白くしてほしい。結婚して何年も経つのに、やたら目と目を合わせてニコニコし合って、「あなたのおかげです」「あなたを尊敬しています」って言いあうだの、ちゃんちゃらおかしい。そういうのが開明的西欧的スタイル、理想の夫婦だなんて、薄っぺらいにもほどがある。

心の底では夫の信念を尊敬していても、八重の性格なら、夫の弱腰な態度や、理解の乏しい教師陣に時に怒りを覚えてもおかしくないわけで、思ったことをそのまま口にして夫とも周囲とも衝突しつつ、時勢や近代的思考を学んだり、夫との絆を深めていってもいい。で、結婚してしばらく経ったら、普段はもっと、あっさりしててほしいし、互いに、時に邪険に扱ったり手のひらで転がしたりわがままを言ったりしてほしいですよね。そういう馴れ合いを許し合いつつ、特に冴えない日常を営みつつ、支えるともなく支え合い、いざというときには互いの大切さを痛感する・・・そういうのが、「いつか別れるかもしれない恋人」でなく「幾久しい夫婦」の醍醐味ではあるまいか!と思うんですが。

今回、襄父(清水さん、大河が似合う…あの妙な総髪も似合う…!)が語るのを聞いて、「襄の背景をもっとくれ!」て思いも新たにしたね。妖精すぎる襄さんだけど、実際、国禁を犯して渡航してるわけだからね。役人と戦わなくてもじゅうぶんすごすぎるだろ!! いってみりゃ、奇人変人と名高い吉田松陰と同じことやって、あっちは失敗したけどこっちは成功したわけだからね! あのときの(10話ぐらいだったか?)「さようなら、日本。窮屈な私の国」だったっけ? やたら陰影のあるセリフだったしさ。

そして、くまもんバンドのシュッとした子に、「古川くんいいよね〜どうももう活躍の場はなさそうだけど」と先週のコメント欄でやりとりしたそばから、くまもんたち、卒業しちまった(泣)。猪一郎はともかく、古川くんに再登場はあるのか(泣)。猪一郎の中村蒼くん、なかなか似合ってるね。「イケパラ」のリメイク(マエアツ版)で小栗君の役をやってたけど、ああいうクールビューティーみたいなのより、こういう、ちょっと垢抜けない役のほうが味が出る気がする。

そーだ、今回は、カルタのシーンがありましたね。あれは、かつて会津のお正月に、女たちでやってたカルタと一緒のものでしたかね。能天気なシーンでしたが、会津時代だって、戦争が始まるまでは、ああやってほのぼのしてたんだよな〜と、日常に襲いかかる戦争という暴力の惨さをあらためて思いました。時に細やかな演出が見られると、今はとてもうれしいですね。授業のボイコット中に猪一郎が校内新聞を作ってて、文才を讃えられるあたりも、いいなーと思いました。