読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『夫婦善哉』 第4話(最終話)

ドラマ

第1話で関東大震災はあったけど、今が大正なのか昭和なのか、イマイチわからんくなるなーと思いつつ見ていたら、盧溝橋事件という固有名詞が出てきて、出征の人を万歳で見送るなど、にわかに軍国色が前面に出てきた。その画の中を尾野真千子がひとり歩いていると、もう『カーネーション』にしか見えなくて、早く戦争終わって周防さん出てきて−! 今作では駆け落ちしちゃってー! なんて思っちまうのだった。

で、すったもんだの末、柳吉の娘の結婚式に「ふたりで」出席するため再び大阪の地を踏み、幸せを噛みしめ…って、世相どうなった!? これからかなり苦しい時代よ!? 化粧品屋なんて、大阪の維康本店も別府の柳吉店も、当分お先真っ暗よ?! と視聴者をただならぬ不安に陥れてドラマは終わるのでした。ちゃんちゃん。

まあ、大河ドラマではないし(つーか大河ドラマだって時代をうまく描かないものはいくらでもあるし)、めおとの物語なので、世相とか、周囲の人々とかは二の次なんだろうな、と思えば、思えます。法善寺横丁とか、大店(おおだな)の構えとか、カフェーとか、大阪の猥雑さ、大正ロマン(?)感あふれる着物など、美術のほうは、さっすがNHK!て感じで眼福だった。サロンド蝶柳、すごく広く見えたんだけどあれはほんとに広いセットだったのか、どこか実在の建物を使っていたのか、それとも映し方で広く見えただけなのか、今さらながら気になるなあ。

青木崇高の小河童、麻生祐未のおきんの見せ場は私には物足りなかったけど、その分、贅沢な使い方といえるのでしょう。役者としても、不完全燃焼は不本意かもしれないけど、「もっと見たかった」という感想をもたれるのは悪くないのかもしんない。

火野正平のお父さんが終始よかったなあ。あのお父さんをもつ蝶子が柳吉にベタ惚れて道を誤る(?)のは非常に説得力があった。だめんずものでも意外に不快感なく見られたのは、男の良心を信じちゃうから引っかかる・・・じゃなくて、「信じることができるからずっと歩き続けていける」って感じがあったからじゃないかって気がしてる。その根底が火野正平の種吉だった気がする。

蝶子と柳吉は、まあ、ああいう結末しかないよなあ、と。ふたりを「めおと」として初めて遇してくれたのが柳吉の前妻の娘であり、柳吉が感動されたあとも維康商店で育った文子だった、というのは美しく整然とした図式なんだけど、文子がそういう気になったのは、結局、文子も“汚れた”といっては語弊があるが、彼女自身が世間のしがらみや男と女のエトセトラを知ったから。文子が、柳吉にとっての「汚れなき天使」じゃなく、「男のために家をも捨てる覚悟をする女=柳吉&蝶子サイドの女」になったからだよね。

それは悪く言えば堕ちたってことになるんだろうし、でも、その「堕ちる」ことを肯定する作品なんだろうと思います。生きよ堕ちよ、といえば安吾ですが、えーっと、織田作之助も、無頼派でOKだよね? 

だからあのラストシーンは幸せなように見えて、これからもまた、だめな男とあほな女はワヤになったり元サヤになったりを繰り返しながら生きていくことを示唆している、って解釈でいいですか?

もうちょっと、脚本がハネるっていうか、大阪の夫婦だし会話で笑かしたり溜飲下げさせたりするのかなーと思ってたので、そこは期待と違ったけど、まあセリフなんかは原作にあるていど準拠してるのかな? 安易にヘタなコメディに走らなかったのはかえってよかったのかもしんない。とにかく美術と音楽が屹立していて…むしろ、最近のNHKスペシャルドラマって、それらが屹立しすぎるきらいがあるぐらいなんだけど、やっぱり目や耳に楽しいです。森山未來の仕事選びからは今後も目が離せない。

あと、この4話(最終話)は、近年になって発見された「続夫婦善哉」をもとに作ってある、と聞いて非常に興味深い。では、有名な、森繁久彌淡島千景でやった映画なんかとは、ラストあたりは全然ちがうってことよね。おお、見てみたくなった。