『街道をゆく 2 からのくに紀行』 司馬遼太郎

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

すごくよかった〜。ブログは一番には自分のための記録であって、本についても人に紹介したりおすすめしたりしているつもりはないんだけど(もちろん興味を持ってもらうことがあればいつでもうれしいけど)、この本は、なんか、いろんな人に読んでほしいな〜って思う。

司馬遼太郎がゆくのだから、歴史紀行である。とはいっても、宮廷や古墳や、立派な碑のあるような名跡を歩くでもない。仏像や美術品を眺めるでもない。

「韓国の農村をぶらぶらすることによって、もし僥倖にもこの民族の原型のようなものに触れることができれば」というのが旅の目的“のようなもの”だとある。朝鮮半島に住む民族の原型に触れる、ということについて、また、「とびきり古いむかしむかし、日本とか朝鮮とかいった国名もなにもないほど古いころ、半島も日本も棲む人はたがいに一つだと思っていたようなころ、ことばも方言のちがい程度しかなく、大声で喋りあうと通じるような、そんな大昔の気分を味わえれば」とも、書き換えられている。

だから、ほぼ全編、韓国を旅しているのではあっても、紀行文にはつねに「日本との関わり」という通底音のようなものが流れている。

朝鮮と日本との歴史的関わり、といえば、真っ先に思い浮かべるのはやはり、併合や先の戦争のことだ。さらには秀吉の出兵。侵略の歴史は、もちろん、双方の国で学び続けられなければならない。

けれど、それぐらいしか思い浮かばないのも寂しい話だ。寂しい話だ、ということに、こういう機会がないと思い至らないこと自体、寂しい話なのだ。

古代史の本や、古代を舞台にした作品を読むと、聖徳太子の時代でも、中大兄皇子でも、もちろんそれよりずっと前の卑弥呼の時代でも、だいたい、朝鮮そしてその向こうの中国大陸の話は出てくる。出てこざるを得ない、それぐらい深い関わりがあって、このあたりの歴史は本当に面白い。グローバルでダイナミックでインモラル。

663年、新羅と唐との連合軍に当たるべく、九州から無数の小舟を漕ぎだして4万ともいわれる兵が朝鮮に繰り出したことを思うと、絶句するしかない。4万とは、当時の倭国の版図の青年男性の1割ぐらいにはあたるんじゃなかろうか。現在だって、福岡から釜山まで、高速船に乗っても2時間以上かかるのだ。それでも行かざるを得なかったのは、「行かなければ次は日本が侵される」という危機感の表れだろうし、百済任那といった亡国との関わりがそれだけ深かったともいえるんだろう。

そう、関わりの深い亡国、百済(くだら)・任那(みまな)。崇神天皇は和名を御真木大王(みまきのおおきみ)といって、これは任那の「みま」からきているのではないかという説もあるらしい。天皇家のルーツについてはもう何年も前、今上天皇が「朝鮮半島にあるのではないか」というようなスピーチをして話題にもなったが、それはさておいても、それらの国々から多くの人々が日本に流れてきたのは事実であるという。司馬が育った大阪にも、百済人たちの一大耕作地帯が置かれたし、畿内の土地が足りなくなると、関東のほうに入植していった。もちろん、日本から朝鮮に渡る人々もいたはずで、そういった行き来は珍しいことではなかった。

もちろん誰もが飛行機に乗って旅行できるようなことはなくても、今よりも隔たりのない時代があったのだろうと思う。それこそ、大声で話せばなんとなく話が通じるようなこともあったのかもしれない。けれど一方で、隣とはいえ、地理も気候も大きく違う。地理が違えば政治的環境が変わってくるし、気候の違いは風土の違いであり、生活の違いに直結する。それらが長い時間をかけて国民性の違いを醸造してきた。

白村江や元寇など、歴史の中の「ときどき」ではなく、つねに中国大陸に成立している国の脅威を受けてきたのが朝鮮半島だ。儒教が隅々にまで行きわたり今も大きな影響を及ぼしていることも、古くから中国風の名前が名乗られていることも、そういった政治的環境が背景にあるのだろう。任那も、百済も、高句麗も、新羅も滅亡した。鎌倉幕府が倒されたり、本能寺や大阪で天下人が敗れたとしても、国としての滅びを経験していない日本と、ここも一点、大きく違う。

深い関わりがあった部分。大きく異なる部分。それらの両方をいろいろと見ていくことで、思いもよらぬほどの親しみがわいてくる。どちらも、「こんなに近い」という気持ちでちょっと熱くなる。よく似ているんだねえ。そりゃ、こんなに近いんだもん。こんなに近いのに、違うんだねえ。近くても、全然違う環境なんだねえ。

北部九州に住む者としては、対馬の歴史について触れられているところも非常に興味深かった。江戸時代、対馬藩は十万石“格”ということにされていて、これは普通のように米の取れ高を検地しての家格ではなく、「それぐらいの国」という異例の換算だったらしい*1対馬は大きな島であるけれど、平地が少なく、土地も痩せている。魚や海藻をとり、わずかな耕作でしのいでも、とても人口を養えない。それで、九州本土の飛び地の領地で耕作したり、商人から買ったりするのだが、それでもまだ足りないので、なんと、朝鮮からの貿易米で人口の3割近くが食べていたというのである。

貿易といっても商業的なものではなく、中国風の朝貢貿易で、「大国が小国に恩恵を与える」といった図式の貿易だという。朝鮮も別に豊かな国ではない(だいたい、朝鮮はほとんどが日本より寒い)から、そんなに余裕があるわけでもなく、対馬からの交易船を制限しようともしていたが、「倭寇(海賊)を追い払う代償」という建前もあり、江戸幕府も、対馬藩(藩主は宗氏)が独自に朝鮮と交易するのを認めていたらしい。とはいえ幕末が終わり新政府が成立すると、新政権は大上段からの、従来の慣習を無視した書簡などを対馬を通じて送ろうとするなどして、対馬は大いに苦労したらしい。そんなことも、全然、知らなかった。

現代では、韓国映画とかドラマとか、音楽、サッカーなどスポーツで、またグルメや美容を通じて、韓国を身近に感じている人も多いと思う。私も好きです、東方神起(笑)。でも、1971年の司馬の韓国紀行…きっと、40余年が経って韓国も様変わりしているだろう今だからこそ、読みがいのあるものではないかとも思う。

*1:北の松前藩もそうだったらしい