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鬼アプリから派生して〜子育てのいま 3

自分が子どもの頃って、日々は単調な繰り返しで、ヒマな時間がたっぷりあった気がする。保育園児だったので平日は朝から夕方までそこにいるわけだけど、まあ保育園って自由な時間が多いものだったし。

朝早く目が覚めると、親が起きるまで、天井の模様をじーっと見つめて、「大きな雲と小さな雲」とか「へっぴり腰で荷物持ち上げてる恰好」とか見つくろってた。鉄棒(二段組みで要塞みたいに大きい鉄棒ジムが公園にあった)を極めたり、友だちと「鉄棒鬼」という新種の遊びを開発したりした。もうちょっと大きくなると、陣取りやゴム跳びに精を出したり、狂ったように折り紙のくす玉を作りまくったり。毎晩、姉妹でトランプの「大富豪」にハマった時期もあった。相手の持ち札がわかってしまって面白くないから、2人でやるのんだけどカードを3山にわけて、1山は「透明人間の分」ってことで放置して、やってた。アイドルのアルバムをせっせと聞きこんで自作の歌詞カードを作ったり、好きな本の番外編を作ったりもしてた。番外編なのにどんどん新キャラも登場。「せんせい、あのね」という作文帳みたいなものに、毎日新作を書いて出すのだ(先生はいい迷惑だっただろう)。もちろんテレビも見てたしマンガも読んでた。

それぐらいヒマだった。でも、気ままで、自由だった。好きなものがたくさんあったし、嫌いなものもあった。好きなことを見つければいくらでも夢中になれたし、一緒にやる友だちもいたし、次から次に、やっては飽きて、省みなくなるのも勝手だった。余談。日本ってどうも、継続は力なりが大好きで、「3歳からずっと○○をやってます」みたいなのを尊ぶ傾向にあるけど、飽きっぽさは子どもの特性で、むしろ飽きっぽさを生かしていろいろやってみるのっていい気がするんだが。そういう意味でも、主人公がひとつの夢をまっしぐらに追わない(海女〜潜水土木科〜アイドル〜女優みたくフラフラするのが許容されてる)「あまちゃん」が大好きだ!

閑話休題。そりゃ子どもだからうまくできたら親に「見て見て〜」とやるけど、勉強も遊びも、何かの活動でも、「親が喜ぶから」とか、「がっかりさせたくないから、怒られたくないから」とか思った記憶がほとんどない。親たちに何かしら成果を期待されてると感じたことも。子どもだから気づかなかっただけ、というわけではない気がする。

習い事のような「自分のために用意されたスケジュール」をこなす友だちが大人っぽく見えて羨ましかったり、ピアノとか新体操とかいう誰が見てもわかる特技をもっている子の輝きに見とれることもあった。でも、私は私なりにヒマさと主体的に向かい合っていたように思う。そして、そういう子ども時代は、長じてのちにも、割といい方向に作用した気がする。どんな環境でも楽しみを見つけたり目標をもったりして、それなりに主体的にやってこられたような…。

5歳になろうと小学生になろうと延々とヒマで気ままな時間を満喫できた(?)私のようには、自分の子は、いかないんじゃないかと思う。いくら親が気をつけても、友だちがゲームやらタブレットやら持ってるだろうし。そういう世界で、自分の子だけ延々とそこから遠ざけ続けるのもどうかと思うし。もう、キーボードの時代ですらないもんね。今ですら息子は、「ケータイ」といって、左の手のひらをスマホに見立て、右手の人差し指で画面をスライドさせたり、親指とピッと挟んで画面を拡大するようなパントマイムをしてる。スマホを扱わせてないのに! 

そう、今ですら、自分のころとは違うなあ、と思うことはある。なんか、適当に遊ばせる、ってことがちょっと難しいし、適当に遊ばせてることを申告するときは、「ずぼらな親なんで…てへ」って感じだったりする。幼稚園の園庭開放とか、どこそこの体験イベントとか、「行ったよ」、「どこかいいとこない?」、「人気だよ」、そういう情報交換がさかんに行われているのを見聞きすると、「私、こんなにのんびりしててやばいか?」と思ったりする。とはいえ、どうしても、そういうのにあんまり興味がもてないままきたのが事実。

まあ、やっぱり現代って、空地はもとより、公園も少ないし、公園に来る子も少ないし、昔に比べて遊具はつまらない。小さいころから保育園に行ってる子も多い。だから親は、習いごととか、プレクラスとかに、そういう疑似的公園みたいな役割を期待してる部分もあるんだと思う。「家にいても、子どもが退屈するし、親のほうがまいっちゃうからね〜」的な話はすごくよく出る。

確かに、昔だって、親は子どもの相手なんていちいちしてなかったのだ。きょうだいが多くて、炊飯器も洗濯機もなければ家事も大しごと。子どもは子どもで勝手に遊ぶものだった。取っ組み合ったり、川に入ったり。今はそういうことで身体性を磨く場所がない。けれど身体性はとても大事だとみんな思っているから、体操やダンスや、道場?みたいな習い事が流行る。軟弱な子にしたくないから、そういうところで、あわよくば、心も鍛えてほしいと思ったりする。コミュニケーション能力とかも。「人間力」が大事な時代だから。

もう、今の時代では、そんなふうにするしかないのかなーって思っちゃう。お金を払って、外注。そういうのに、あるていど巻き込まれていっちゃうのかなあ。でも、そうであるならば、なおさら、今が大事だなあって思う。まわりの友だちや、大人たちの価値基準に関係なく、のんびりのびのびしてほしいなあ、と。人気の習い事や、幼稚園や、幼児教材で「のびのび」と謳っていないものはないぐらいけど、私としては「それは、ホントに、のびのびなのか?」と疑問に思うことが少なくない。

習いごと自体は自分の子ども時代からあったけど(でも当時は、未就学期から習い事をしてる子は今ほどいなかったような…。私が保育園児だったからか?)、なんか今はそのころと違うところを感じるんだよね。「心を育てます」と標榜する野球やサッカー教室もそうだし、幼稚園でもひとりひとり自分の席があったり、ことばや数字のワークブックみたいなものが宿題で出たりするのだ。夏休みの宿題には、工作とか、日記とかまで含まれている。年少さんでも、だ! もちろん上手に文章を書けるわけない。親が薄く書いたものを、上からなぞらせてでもいいから・・・ということだったりする。ちょっと、正気の沙汰とは思えないんだけど(笑)実話です。友だちの家で実物も拝見。
 
そういう根底には、「この厳しい時代、心身を強く育てなければならない」とか「小学校に上がってから困らないように」っていう親のニーズがあるんだろうけど、なんっか、どうしても、ぴんとこない。いい子に育てるためのメソッドなんだろうけど、もちろん我が子を悪い子に育てたい親はいないんだけど、なんっか、即物的な感じがする。早くから訓練することを対策にする、っていうやり方は。幼児の時期に、幼児らしいことを、全部、ぜーんぶやり尽くすからこそ、学齢に達してからの勉強のスタンバイができるような気がするんだが、そんなのこそ、机上の空論なんだろうか?

幼児期から、机に座らせて、エンピツ握らせて、正解に導かないといけないんだろうか。月齢も発達も違う子たち全員に同じ課題を与えるべきなんだろうか。ボールやバットを傍らに、努力とか協力とかを教え込まなくちゃいけないんだろうか。効率化・最適化された環境や教材などを前に、大人が「こうしてごらん」と言ったとおりにやるのが、子どもにとって、本当に面白いことだろうか? そういうものでしか面白いと思えなくなったり、刺激や課題は「与えられるのがあたりまえ」、答えや問題の解き方も「教えてもらうのがあたりまえ、教えてもらったとおりにすればそれでよい」となってしまわないんだろうか? 小学校に入った時こそ、ひらがなや計算をスムースにこなせるかもしれないけれど、自分の思いの向くまま、時間にとらわれず、気ままに物事をやり抜いた経験がないと、学年が進んで、「自分の頭で考えること」「応用的・抽象的問題」に出会うころ、悩むことにならないんだろうか?  

それでも、こういう園が普通の(セレブでも、お受験指向でもない)親にも人気で、マンモス園といっていいほどの規模でも入園が抽選だったり選考があったりするのよね。それは、親になってみて初めて知ったことで、本当に、びっくりした。今でもびっくりし続けている。まあ、「席について先生の話を聞くことができない小学生が多い、教室が動物園みたい」なんてのは、子どもができる前から、ちょいちょい聞いてた話だから、切実な願いとして始まった取組なのかもしれないなあ…。

そもそも、ちゃんとした幼稚園がやっていることなんだから、最新の研究や確立された理論に基づいて、成果も確認されていて…ということでの保育方針なんだろうとは思うけど、結局、子どものそばにいるのはシロウトである親で、ひとつ運用を間違えたり、本質がわからなかったり、目の前の課題のできる/できないに気をとられると、ひどく本末転倒になるんじゃないかなと思ってしまう。

自分がのんびりのびのびしてたから我が子にも、というのはいかにも安直だけど、結局それが一番しっくりくる私。革新からはほど遠い人間なのかもしれないけど。「今でしょ」の林先生が情熱大陸に出たときに、大事なのは3歳から5歳の過ごし方だ、と言っていた(それ以上の説明はなかった)。そのときは、「ふーん」て感じで見てたんだけど、最近、思う。3歳から5歳は、ほんとの意味でのんびりのびのびさせることが大事なことのひとつなんじゃないかと*1。それが意外に難しいことをすごく感じるから。(つづく)

*1:東大に入れたいわけじゃないですよ