『八重の桜』 第34話「帰ってきた男」

依然として尺問題はつきまとっていて、歴史パートがほとんどないことにオーノーッとなりましたが、大丈夫、こんな感じでも、私は今後も楽しめそうです。不満もなきにしもあらずですけど、なんといってもジョーがかわいい! エアリー、ラブリー、チャーミング! まさに新風を吹き込んでくれました。

29話で会津戦争が終わって、34話でジョーが本格登場となれば、(20話代の密度の濃さはありましたけど)本来はちょうどいい頃合いだったように思うんですよね。ていうか、というかこれでも遅いぐらい。31話で離縁状が届いて33話で再会してしまったんで、「早っ!」感が拭えないわけですが、これは、ジョーが出てくるのが早すぎるというより、個人的にはやっぱり、尚さんをひっぱったよなーって感じがしてます。

繰り返し書いてますが、私も、尚さんは好きだったんですけど、尚さんが思いのほか人気が出たせいかどうかはわかりませんが、尚さんの存在ってドラマを盛り上げたのと同時に、ドラマ(ストーリー)をちょっとかき乱してしまったんじゃないか、って気もしてます(尚至上主義の方にはごめんなさい。あくまで個人の感想ですので)。

まあ、尚さんの晩年に光をあてるのはこのドラマの使命のひとつでもあったわけで、また、会津戦争+尚さんという傷をもつ八重を包み込むジョー、という形で尚之助→襄へバトンをリレーしたい意図もだんだん見えてきたので、そういう意味では必然的な展開を作ってきた、と作り手は自負してるんでしょうが、なんとなく、作為を感じてしまうんですよね、見てて。

さて、横浜港に襄帰国…の画面上に横浜市長の再選を知らせるテロップ。入国書類みたいなのに29歳って書いてありました。ふむふむ。耶蘇教の学校ということで、大坂で設立を断られたジョーが木戸さんを頼ると、木戸さんは京都の覚馬さんを紹介してくれます。てか、先週、図星とはいえ山本兄妹ふぜい(彼から見れば)にあれだけ失礼千万なこと言われてぐうの音も出ない状態でシーンを切っておきながら、しかも、ジョーにはアメリカでも今回も二度にわたって仕官のスカウトを断られながら、ジョー/覚馬間のパイプ役になってやるって、木戸さん、いい人すぎ!! 惚れた。木戸さんって大河ドラマではたいてい浮かばれない役どころなんですけど、今回もそこは踏襲しつつ〜の、いや、だからこその大人物っぷりで悶絶です。いろいろうまくいってないけど、彼らとて腐っても(?)維新の立役者、「壊しただけ」ではないということですね。ドラマは明治8年か…。うーむ。木戸さんの頭痛は…。

さっそく覚馬に会いにくるジョー。体のハンデを前もって伝えておかなかった木戸さんについて、覚馬は「人が悪い」と小さく笑いましたが、そんな木戸さんがまたイイ! 彼には、覚馬のハンデは考慮するに及ばない事柄なんですよね。いえ、彼自身、覚馬が東京の自宅に訪ねてきたときは最初に「その不自由な体でよくぞ来られた」と労っています。けれど話すにつれ、覚馬がハンデなどものともしない胆力と手腕で働いている人物であるとわかった。だからジョーにも言わなかったんだろうと思う。覚馬を尊重し認めていたこと、そしてジョーも覚馬のハンデを色眼鏡で見るような人物でないと、木戸さんにはわかっていたんでしょう。すごく些細な設定でしたが(史実かな?)木戸さんかっけー!

京都では耶蘇に対する抵抗が強いと一応牽制してみる覚馬に、襄は超饒舌に理想と志とを語ります。初対面でここまで饒舌だと、現代人であっても私なんかは「なんかうさんくさい…」と思ってしまうところなんですがまあ尺的にもサクサク進まないといけませんし、浅学にして知りませんが、実際、一度の対面で事が運んだと史料が証明しているのかもしれません。とにかく覚馬の心の眼は確かですからジョーに私心のないことを見抜き、また「良心を育てる」という志に共鳴。喜びのあまり覚馬をハグハグするジョー、自重www 腐女子の思うツボだぞwww 

そこにお茶を運んできた時栄が当然のこととしてドン引き(ここ、体の不自由な覚馬をジョーが暴力で脅しているように見えて驚いたのか、あるいは、「うちの旦那さんの貞操が危ないっ」て感じだったのか、自由な解釈ができて楽しいです。や、普通にハグっていう行為の意味するところが理解できなかっただけなんでしょうけどねw)するんですが、エンジェル襄さんはおかまいなしで、時栄の両手までしっかりと握ってサンキューの嵐。しっかり者の時栄さんまで何となく抱き込んでしまいます。

ともあれ、こうして、薩摩藩邸のあった土地に、長州の木戸さんの紹介で、会津の覚馬が肝いりで、同志社英学校ができることになるのですね。槇村さんの「大坂が断ったんなら断固京都でやったるわい。え、そのベビーフェイスで、オマエ、金もってんの? それ先に言わんかいな。どんどんやれ、どんどん」って俗人全開の反応もよかったですw

ちょうど最前から、覚馬は八重に聖書の勉強をさせているところ。もちろんそれ以前に自分でも読んでいるわけです。確かに新島襄は宣教師であったわけですが、大河ドラマで布教活動やキリスト教の教義の捉え方を詳しくやるのを見るのは初めてで、とても興味がもてました。覚馬はあれだけの才人なのでさまざまな学問に触れていたはずで、その中から、キリスト教の教義にこそ共鳴する部分があったというのはあらためて興味深いですね。当時の文化人、先進的な人々も心情的に避けていたものですからね。

それでいて、覚馬は八重にも聖書を勉強させつつ、神がどうこうという部分には自分ではあまり惹かれていないように見えました。会津で銃を持って戦ってしまった妹が恩讐から解放されることを願いつつも、「最終的には自分でどうにかするしかない」と思っているあんつぁま。そして、自分自身については解放されることすら願っていないようである…というか、願う資格もないと思っているのかもしれません。あんつぁまは自分のことをベラベラ喋らないのが、より凄味や、抱えているものの重さを感じさせていいですね。闇将軍あんつぁま。

問題は、八重がそこまで恨みや悲しみに囚われているように見えていなかったことなんですよね…。今回の井戸のシーン。あ、井戸エピソードは有名なものらしいですが、あそこで、かの有名なw「危ないではないか」(from「篤姫」。このシーン、回想で20回ぐらいやった気がする…orz)を再現するとは、さすが臆面のない「八重の桜」スタッフですww その井戸のシーンで、八重が「自分は会津で鉄砲を撃ち大砲を撃って敵を倒して云々」とトラウマの深さを問わず語りに語るわけですが、正直、「むむ、そうだったのか」ぐらいの感慨しかもてなくて。「7年経つが」と言ってたけど、さらにドラマではまだ5話しか進んでいないっていうのにね…。

なんせ先週は、「モア アンド モア! ビガー アンド ビガー!」とか言って明るい顔で夢を語るわ、槇村とコントを繰り広げたあげく東京まで行って彼のために一肌脱ぐわで、なんかすっかり前を向いているように見えましたからね。いえ、屈託なく見えてもふとした拍子に頭をもたげるのがトラウマだといえばそうなんですけども。また蒸し返すようですが尚之助との再会についても、尚が「新しい時を生きなさい」と言うまでもなく、それ以前から、既に八重は新しい時を生きているように、私は感じていたんですよね。尚之助が背中を押したから歩き出したのではなく、既に八重が歩き出していたから別れなければならなかったのだろうという感じが私にはしたし、だからこそあの再会がドラマチックで悲しくて且つひとひらの救いになっていたと思うんです。

襄に対して「川崎八重です」と名乗ったことも、井戸端…でなく井戸の上でのトラウマ告白からも、そして落魄した尚之助と再会させたことも、大きな愛で尚之助込みの八重を包む襄なのですよ、というシナリオのための布石だと思うんですが、ちょっとすとんと胸に入ってこないなあというのが正直な印象です。

ちょっと、書きながらいろいろ考えてるので読んでる方には非常にわかりにくくなってしまってると思うんですが(汗)、つまり、八重は勇敢に戦ったけれども当然ながらたくさん傷つきもして、尚之助に対してもわだかまりがあったし、薩長に対する憎しみの心も強く持っていた。ただ、彼女の性質としては「恨みに囚われて生きたくはない。前を向いて生きたい」という気持ちもあり、斗南ではなく兄の待つ京都に来て、兄に渡された「学問という新しい武器」「学ぶことで見つかる答え」をとりあえず信じて歩き出してみた。元来、学ぶことも前を向いて歩くことも彼女の性に合っている。

そこで、尚之助との再会。彼がなぜ離縁状を書いたのか、今どれだけの窮状にいるかという真実がわかり、かといって、彼女自身、「簡単には元に戻れない」ことを直感的に理解している。「妻でなくてもいいから」というセリフがそれを表わしていたと思います。ふたりは既に違う世界にいる。そして尚之助は彼の誇りと大きな愛とで、八重の背中をダメ押しに押す。その行為自体が尚之助にとっての救いにもなった。八重はそれを受け止めている。だから、敢えて尚のそばに居座らず「待っています」とだけ言って京都の自分の生活に戻り、兄に生活の援助を頼んだとか、文通を続けているとかいう様子もない。佐久の「尚之助は復縁するつもりはない」という言葉に「わかっている」と答え、けれど「川崎八重」という名乗りからは、尚之助に心を残していることが窺える。

つまり…八重は、戦争で人を殺めたことに対して加害者意識(ある意味、自分が汚れているという意識)をもっている。一方、「やられたらやり返すのが武士道である」という意識もあるし、徳川や天朝に尽くしてきた会津が、思うさま貶められ傷つけられたことについては憎しみや恨みをもっていて、それは正当なものであると思っている。だから耶蘇教の教えがさっぱり理解できない。そしてまた他方で、前回、尚之助と再会したことによって、「愛している人(であり、自分を愛してくれる人)を救えない自分」「彼がそれを願って後押ししてくれたにせよ、そんな人をおいて前へ進む自分(と兄?)」への懐疑というか、罪悪感?みたいなものも新たにもった状態なのではないかと思うんですよね。

で、それらのすべてを、それまでの日本には存在しない、彼女が見たこともない形で包み込み、昇華させ、共に歩むようになるのがジョーなんでしょう。と、今、自分でつらつら思い出しつつ長々と書いて納得したんですけど、パッと見でスッと受け止めたかったのが本当のところですね、ハイ。

「耶蘇の教えがわからない」と八重がウンウン唸って悩むシーンはすごく面白かったです。ていうか、現代の日本人の大半にもわかりませんよね。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せって…。この状況から、どうやって受洗までいくのか、非常に楽しみです。まあきっとジョーの魅力なんでしょうけどね☆ 悩むシーンに佐久も絡ませているのも脚本のしっかりしたとこですね。

ジョーの描写に関しては、密航から帰国までのあらましを覚馬に語ってましたけど、あれ、初対面にしては饒舌ではあっても、あれだけで彼の半生を理解することは到底できなくて、ジョーさん謎すぎです。夏休みにパスポートもってホームステイに行くわけでもなし、密航するにはそれ相応の決意とか、「日本なんて大嫌い感」があったんじゃないかと思うし、また、幸運にもすばらしい人たちに出会ったそうですが、異国でひとり生きるのは相当なサバイバルでもあったはずで、それが、何がどうなってこうなっているのか。そこらへんの屈折とか苦闘みたいなものが、神に仕えることによってすっかり流されて天使の襄さんが出来上がったって言いたいんでしょうが(つまり彼は八重さんたちよりいち早く、俗世の恩讐から逃れているってことですよね)、ちょっと、もうちょっと詳しくドラマでそこのプロセス教えてください。来週わかるのかな?

まあ、何にしてもジョーさんかわいいです。ホクホクです。靴を磨くジョー、クッキーを口に放り込むジョー、授業が難しそうと見るや、讃美歌を教えて教室を祝祭的空間にしてしまうジョー! 「3年も東を向いてる女はまっぴら」なジョー、これは有名なエピソードだそうですが、槇村と覚馬とジョー、三人三様のリアクションが面白いシーンに仕上がってましたね。「まったく理解に苦しむ。・・・待てよ」の槇村、東を向きっぱなしなのが美徳の妻を愛していた(というか今の妻もそういタイプ)けれど正反対の妹の気性も愛している覚馬、そして無邪気そのもののジョー。

襄→八重へのプロポーズは、「早っ!」なんだけど、むしろ中途半端なことやられるより、それぐらい全力でツッコめるやり方で良かったのかも、と思えました。襄も、この時点で、特に女としての八重にホの字(死語)なのかどうかはよくわかんないっていう。槇村に「神>妻」的なことを語ったり、宣教師仲間に急かされたりと、なんとなくビジネスライク寄りなスタンスで妻という存在を求めていて、そこに現れた八重が「おお、この人はぴったりじゃないか」てことになったような…? 彼女の尋常ならざるトラウマは、「内戦で傷ついた人々を癒したい」というピュアな志を刺激したのかもしれない。「この人を幸せにすることが布教活動の第一歩、しかもこの人、実際は超強そうだから力強いパートナーになること間違いなし」という直感…? 敬虔なクリスチャンである襄は、女性(恋愛)に対して煩悩っていうか愛欲っていうか、劣情みたいなものは持ちそうにないし、そういう意味では、尚八重に劣らず、襄八重もピュアな夫婦になるんでしょうか。次週も楽しみです。

そしてそして最後になっちゃいましたけど、会津人たちのその後がチラリと。玉鉄登場での自分の昂揚がおかしかったです。浩が大好きらしい私www それにしても、健次郎@アメリカ編が省略されるのは納得するにせよ、佐賀の乱が浩のセリフで終わってしまったのには唖然! 浩ったら、自分の大活躍@日光口の戦いをナレーション無双された仕返しとしか思えないwww 

ともあれ、江藤新平の側の事情が割愛されるのはともかく、浩や官兵衛ら会津人がいかなる思いで新政府軍に与していったのかは、説明セリフだけでなく、もう少し詳しく見たいところでした。でも、官兵衛の軍服姿といい「イェール大学のぅ…」のわかってなさそうさ加減(それでも感心している感じ)といいステキでしたし、浩の「うちは貧乏だぞ」のむしろ誇らしげな調子もすごく良かったです〜二葉の、再会早々「これは質草になる!」の判断も。