『八重の桜』 第33話後 ツイートより

8/20(火)にアルコホル摂取しながら連続ツイート。せっかくなのでブログにログを残す。 

●32話「兄の見取り図」がかなり好き。今までの中で5本の指に入る。3本かも。再見してもやっぱりいいわ〜。最初から最後まですごく好き。谷村美月、演技うまいね。強張った笑みでの「お口に合うやろか…」とか。みねと時栄のシーンもほんといい、そのあと佐久が指で涙を拭うのも好き

●32話エピソード、黒谷でのAIZ48の回想シーンも好き。音がないのがまた、いい。修理、権助、土佐、内蔵助…在りし日の姿が泣ける。西郷さんの語りも好き。木戸さんがあんなにイライラカリカリしながらも、襄をスカウトしてるのも好き。この〜ちゃっかり者♪

●32話エピソード、八重に「2000発の砲弾を撃ち込まれる気持ちはわかるまい、あのときいなかった人には」的にガンガン責められてるのときの覚馬の底なしに暗い顔が好き、そのあと間をおいての「本は読み終わったのか」のクッソ暗い声も最高

●正直言うと33話も尚さんに会いに行くまでが好き。や、再会シーンはあれはあれでいいんだけど、流れの中でちょっと浮いてる感じがして。

●33話は西郷と大久保の決裂までの過程をもうちょっと詳しく見たかった。32話では大久保は木戸と一触即発だったし、ドラマでは藩閥争いをpushしてるのに、同じ薩摩っ子のふたりがどうしていきなりああなっちゃったのか。あと木戸さんにもうちょっといいシーンください

●「清く正しく美しいけど、だから滅ぼされた会津藩士 → 清く正しく美しい人たちから総スカン食らうのも厭わない老獪な黒幕」に変貌したあんつぁまの相棒として、会津には絶対いないタイプの俗人(だけど町を作る志は強い)槇村がいかにふさわしい人物かということ。

●そして槇村の述懐を聞いても、まだ「あんつぁまと槇村の志の清く正しく美しい部分」しか理解できない(そこだけを無邪気に信じている言葉だったよね、木戸と岩倉に投げかけたのは)八重の現時点での限界を示したところにグッときた。

●つまり尚之助は「夫の前を歩く妻」を愛していて、夫になれたことを誇りとしているけど、実際は、覚馬や槇村や西郷のような男たちの、はるかはるか後ろを歩いているのが八重。今後、学問をして追いつくのか…や、追いつくかどうかは別として、襄の妻だから、全く違うアプローチから迫るのか

●大いなる才能を持っていた(というドラマ上の設定)のに、何ごとも成せずに死んだ尚之助(という、維新の犠牲者の代表格その1)の分まで、今はまだあまちゃんの八重が、何かしらをつかんでいくのだと思う、そしてそのためには襄(との夫婦力)が不可欠だった、というドラマなんでしょう

●しかしながら、尚個人を思うと、大いなる才能を持ちながら、惚れた女のために生きることだけを身上として何ごとも成せなかったって、いかにも悲しい。尚はそれでも幸せだったと思ってるんだろうが外野から見ると本当に勿体ない話、それはもう腹立たしいほど。ある意味、才能の浪費。

●文化文政年間ぐらいの時代小説とかだったら、もうちょっと心おきなく萌えられた気がするんだけどな、尚。つまり、あんまり歴史に興味ない人だったら、時代背景を気にしないだろうから、心おきなく萌えられるのかもな(けなしてるわけじゃないよ!歴史好きの哀しいサガなのよ)

●@kanekoiroha どもです。時代の敗者に光を当てたってのがドラマ上での尚さまの存在価値で、会津藩士同様、「時代に負けた」のが尚の哀れさの本質って気がするんですけど、恋愛関係でのみ見ても萌えられるのが脚本の周到なところなのか

●@kanekoiroha そうそうそう! 覚馬への屈折した感情…浩との友情(もちろん屈折込み)…尚に足りなかったのは屈折。屈折には時代や土地の背景が欠かせないから。ほんとは屈折しまくってておかしくないキャラなのにね。まあ屈折がないから萌えやすいって人もいるんですよね、きっと…。