『八重の桜』 第33話「尚之助との再会」

今回飛び込んできた心配なニュース(ニュースっていうかOPクレ情報のみですが)は、脚本に別の方の名前があったことです。自分のツイートを転載。

録画を確認。30話「再起への道」から「作 山本むつみ」のほかに脚本協力として別の女史の名。30話吉澤智子、31話は別の方、32話未確認。今日33話は「作 山本むつみ」の次に「脚本 吉澤智子」。山本筆で完成しているノベライズに沿って別の人が書いていくということか

https://twitter.com/emitemit/status/369082413139255296

自分、割とOPクレジットはワクテカしながら見てるほうだと思ってたんですが、不覚にもこれまで気づきませんでした。ふーむ。twitterでもざわついてましたが、それ以上の詳しい情報はわかりません。どういうことなのか、可能性はいろいろ考えられます。

体調不良につき臨時の代理を立てている。山本さんが「書きたくない or 書けません」と言った(その理由としても、会津編を渾身で書いて力尽きたとか、視聴率等でのプレッシャーで書き進めることが困難になったとか、局またはプロデューサーと確執があるとか、いろいろ考えられる)、局またはP側、つまり山本さんを「使う」立場の人の方から、切った。など(その理由もいろいろ・・・・以下略)

正式な発表がないということはもろもろ交渉中というか現在進行中というか、「発表できない」状態なのかもしれないし、マスコミが騒ぐこと、あるいは山本さんを守るために「敢えて発表していない」のかもしれないし。こういうのが異例かというと、そうでもないんですよね。脚本に限らず、あの高視聴率大河「篤姫」でさえ、メイン演出(監督)の方が後半、いかにも不可解に異動になったりしてます。いろいろあるっつーことですよね。今回の件は、なんとなく、このまま発表しないのかな、という気もしてます。しかし気になる…。

さて本編ですが、「いかんせん、ダイジェスト感は、否めないよね〜」(by ベロニカ from「あまちゃん」)って感じはあります。会津戦争までの丁寧さが視聴者の身にもまだしみついてるので、「もう明治6年?! てことは征韓論そして決裂!?」てびっくり、尚之助と離れ離れになって5年経っている、という時間の感覚もイマイチ体感できませんし、、「あれ?でも来週もうジョー先生京都上陸?! しちゃうの?! そしてラブコメ開始?!」みたいなスピード感にちょっとくらくらしちゃいます。

でも大河ドラマは50回しか(しか、て感じるのもすごい話だが)ありませんし、前半の30回をとても楽しんだ私なので、これは致し方のない話かなとも思います。前半26,7回(7月ぐらい)を前半戦の山場らしき話にするのは大河の常道でもありますし。

女紅場の舎監になった八重先生。女生徒たちを起こすためベルを鳴らすってのが文明開化っぽいですね。新しい生活にすっかり慣れて前向きに取り組んでいる様子。にしても女学生たち(八重も)、英語力高いな! あれだけのヒアリングができて、スピーチもできる現代の日本の高校生・大学生がどれだけいるでしょうか。まあ昔の人の学びの意欲は今とは比べ物にならないのでしょうが、これ実際、女紅場ってどれぐらい高度だったんでしょうか? 授業にリンカーンの演説が使われているのは、アメリカの南北戦争と日本の戊辰戦争とを共に「革命戦争、内戦」としてリンクさせてきたこのドラマらしいチョイスですね。もちろんアメリカ帰りのジョー先生の存在があるからこそのリンクなのでしょう。

覚馬、槇村、明石のトライアングルが機能して近代都市京都が振興されていく様子、その光と影はもっと詳しくじっくりと見たいものでしたが尺の関係でさわりだけ。役所に乗り込んで直訴する八重と槇村とのやりとりは出来の微妙なコントみたいな感じもありましたが、こういう軽妙さが新しい視聴者獲得に繋がるのかも・・・しれません・・・やっぱり日曜8時だし、暗いって敬遠する人も少なくありませんから。ちなみに直訴はおそらく史実だそうですね。女スナイパーよろしく討ち入る八重がガードマンたちを細腕一本で振り切っていく様子は、大げさではあるんですけど、なんせ「八重=力持ち」描写に余念のなかった本作なので、一応筋が通っていて面白いものでした。

槇村にしても今回ちょっと面白いなと思わされました。知性も人情味も感じさせない単細胞で乱雑な男、覚馬を引き立たせるためとはいえあまりに卑小化しすぎではないか、と危ぶんできましたが、なるほどね〜、と。「よちよち歩きの赤子の日本には強い指導者が必要」というビジョン、「木戸たちは壊しただけ、自分たちはつくっている」という自負がある、と。なるほどね〜。

実際に現代でも維新の英雄とされているのは「壊した」人たちであり、そのために犠牲になったり埋もれていった人々や、その後をつくっていった人々に光を当てるのは本作の大きなテーマのひとつでしょう。そして前者のセリフ。維新がきれいごとでなく大きな犠牲を必要としように、その後の復興、振興もきれいごとだけでは進まないということを示しています。このあたり、当たり前のことなんだけどきれいごとを口で唱えるだけですませようとする大河と一線を画しているのはありがたい。

そういう槇村だから、覚馬は組んでいるし、助けもするのですね。つまり槇村は手段を選ばずに金をひっぱってこられる人間、光と同時に影が生み出されようとも強権を発動することを恐れない人間だからです。覚馬は自分の手は汚していなくても十分にその功罪をわかっていて、そのうえで槇村をある意味利用している、先週言っていた“自分の戦争”のために。戦争に勝つにはきれいごとだけではすまされないことを今の覚馬は知り抜いている。清く美しい会津藩士から、したたかで老獪な黒幕への変貌です。そんな自分を自覚し含羞もあるのでしょうが、うらの件にしろ、だからこそ言い訳しない。こういうキャラは大河では本当に稀少なので今後も楽しみです。

そして槇村が小野転籍事件によって京都と中央、山本兄妹と維新の元勲たちを結びつけてくれます。これも尺の関係であっさりしたものでしたが面白かった。「壊した人たち」が陥っているジレンマがその前段として描かれています。いわゆる征韓論、明治六年の政変ですね。これを不平士族の反乱や薩長藩閥の問題としてのみ解釈するのはもちろん雑なんでしょうが、本作のメインストリームとの絡みを考えれば、そしてもちろん尺の問題もあるので(こればっかり)、こういうふうになるだろうな、と私としては納得できるものがありました。

征韓論に反対の大久保に対して「おまえは国内を見てるようで、その実、列強しか見ていない」という西郷のセリフが面白かったですね。大久保にしてみたら「アンタは国内を見てるようで不平士族しか見てないじゃないか」と言いたかったところでしょうが、「俺に任せろ」と言う西郷に言葉を返さず、けれど明らかに納得していない表情を長写しにしたあと、裏で手をまわして岩倉に面従腹背させる、という流れは、今作ではどうしても描きこみが薄くなってしまう大久保のささやかな本領発揮といった感がありました。こういうの見ると、うーん、明治政府中心の大河が見たい!て思っちゃいますね。思いきりゴリゴリと政治群像劇。もちろん視聴率とれる気がしませんが。

板垣がまっすぐ君すぎてちょっとおバカに見えますが実際あんな感じだったんじゃないかと思われますし、篠井さんの三条実美の人事不省とか、度重なる会議に木戸が全部ちゃっかり欠席してるとか、ざっくりしてるけどこだわっているところもあって面白い。江藤新平は、そうよね・・・あんなもんだよね・・・な出番でしたが、ビジュアルの完成度www てか、岩倉使節団の写真www そこを頑張るんだ、っていうwww

さすがに汽車の外観までは作れないものの、木戸邸の広さを感じさせる撮り方や、いかにも明治の政府要人の家っていう調度品の雰囲気は、さすが最近の大河。てか和装に帽子で人力車に乗るあんつぁま萌え〜!! 東京でのあんつぁまは、ちょっと着物の着付けが甘い感じがするのは気のせいですか? これは時栄でなく八重が世話をしているから、っていうことかなと思ったんですが。その甘めの着付けがまたよいのよね(腐)。

「藩を壊した人たちが今さら藩にこだわって」 「政治なんて道具に過ぎない、道具に振り回されるたぁ、ちゃんちゃらおかしい」というあんつぁまの皮肉な啖呵のキレ、ダメ押しで八重に岩倉の様子を描写させ、八重も「へらへら笑ってるけどどこ見てるかわかんない」とツーカーの回答。この〜、鉄砲の家の兄妹め!!! 痛いとこ衝かれて窮するだけっていう木戸さんはあまりに分が悪い描写ですが、木戸って維新の元勲として有名なわりに、実際、イライラしてるかグチグチいってるか逃げ回ってるかっていう印象が強くて気の毒な面があります。やっぱり大河「木戸孝允」をやるしかないよね! 長州の志士たちがバタバタと斃れていく前半、明治政府がっつりの後半。もちろん視聴率とれる気はしませんが。

兄に便乗して、八重もまたまた一演説かましますが、その弁は清らかなだけの正論で、あまちゃんな感が否めないよね〜(by ベロニカ…ってしつこい)。一本気で度胸はあるけど、見えている範囲が限られているのは、これはもういかんともしがたいわけで、主人公を万能にせず、限界もきちんと見せつつ、だからといって貶めない、という描き方が私は好きです。

さて「尚之助との再会」ですが、これがサブタイトルになる時点で、いかに尚さまが絶大な支持を得ていたかがわかりますね。研究が進んだ今なお事実は闇の中、な部分の多い尚之助と八重の離婚の経緯ですが、今作では東京にいるらしい…とぼんやり聞いたうれで東京に行って、そこで詳しいことがわかって八重が会いに行く、という運びでした。そうか勝先生ほどの人が知ってるわけだな、と再確認。もちろん史実ではそれほど記憶に残る生徒だったかどうかはわかりませんが。

ブラック覚馬なら、もっと前々から情報を掴みつつ、八重の将来のために握りつぶしていた、ぐらいのでもよかった気がする(実際そうだったんじゃないかとも思うし)のですが、そこはやはりマイルドな設定になりました。でもそうすると「尚さんの人生を変えたのは俺だ」っていう悔悟の言葉がイマイチ説得力を失うような気がしますが…だってあんつぁまを追って勝手に会津に来たあげく居座ったのは尚さんの意思だし、八重と結婚したのも尚さんの意思だし、戦中戦後はあんつぁまも人のことどころじゃなかったし、もちろんすごく悲しいんだけど、尚さんはある意味では自分の意思を貫いて生きてきたともいえるし運命に翻弄された部分もある。ともかくあんまり覚馬のせいって感じはしないよね。ドラマでは。

とすれば、これは、京都の顧問になって、八重たちを呼び寄せるなどできるようになった時点からこれまで、尚之助の境遇を八方手を尽くして調べず放っておいた、という後悔。ひいては、尚之助だけでなく、斗南で今なお塗炭の苦しみを味わっている会津人たちを放っている後悔ということなんですかね。京都でなく会津(斗南)のために尽くすという選択肢が、八重だけでなく、そもそも覚馬にもあったのだ、と。

まあ、そこはもちろん、覚馬の体を思えば、自分の身ひとつで苛酷な環境の斗南に行くことも暮らすこともできないし、妹にすら「あのときいなかった」と言われるぐらいなのですから、今さらどのツラ下げて、という面もある。けれど何より覚馬は「自分の戦場はここ(京都)だ」と見定めた、てことなんですよね。斗南では勝てないのだと見切った部分があったと。覚馬は大人な人物なので、純粋まっすぐ君的に初手からべらべら喋りはしませんが、戦中だけでなく明治に入ってからも会津と距離をおく生き方を選んだという闇を抱えて、こんなふうに時にポロリと吐露しながら、後半生を生きるのかなという気がします。

そして訪ねて行った浅草鳥越。家は存外広いな、という印象です。裁判中の身で長屋とはいえ寺子屋ができるぐらいの広さをどうやって借りているのでしょうか。ま、ともかく、明治の尚之助が落ちぶれつつも寺子屋っぽいことをしていた説、そこで八重と再会した説は、なんか昔からあるらしいですね。

前段として人力車の覚馬と八重が通りかかり、「子どもの声がしているな。学校はないのか」と覚馬が口にするシーンがあります。明治六年ですからもう学制は発布されてるわけでね。この辺も(森有礼とか)ドラマでやることを期待する向きがありましたがもちろん尺の(以下略)。女紅場の舎監先生の八重。寺子屋の真似事をしている尚之助。やはり似た者夫婦ではあっても、そこに既に大きな溝があります。最先端の学校で英語まで学んでいる八重。まだまだ行きわたらない学制、そこからあぶれている子どもたちに多少なりとも読み書きを教えているのであろう尚之助。

再会の会話、はじめの方では「結局わたしは何も成せなかった。今の暮らしが身の丈にあっている」などという、尚さまには似合わない卑屈な言葉も出ます。なんとか持ちこたえようとしているけれど、ひとりきりで、長く厳しい裁判を戦い、経済的にも困窮して体も害して(咳をするシーンと、八重と相対する前に念入りに手を洗う描写、結核ですよね)そりゃ気力も衰えますよね。これまでの尚之助の苦労がしのばれるセリフでした。

けれどそこに八重が会いに来たから、涙を流してそばにいたいと言ったから、尚之助はかつての己の誇りを思い出して、妻を追い返すことができた。八重は八重で背中を押してもらえた。「あのとき誇りを踏みにじってごめん」「甘えて斗南に行かなくてごめん」とお互いにわだかまりを面と向かって解消できた。ここで八重が甘えている自分を自覚してたこと、結局、意地を張って斗南に行かなかった(部分もある)んだな〜とわかって個人的にかつてのもやもやが晴れました。

ということで、これは歴史に埋もれていった(戦争中に逃げたのだろうとすら思われていた)尚之助に対する救い、八重と尚之助という不器用な、会津戦争に翻弄された一組の夫婦に対する救いの再会なんでしょうが、思った以上にもの悲しかったなあ。妻に一言の甘えも漏らさず突き放すことが「尚之助らしさ」であるのも悲しいし、そもそも、尚之助が突き放さなくても、ふたりの生きる世界、ゆく道はすでに離れすぎている、という感じがひしひしとあって。尚之助は己の体が長くもたないことも自覚していたでしょうが、果たしてそうでなければ、ふたりは京都で(あるいは他のどこかで)また共に暮らせただろうか?と想像した時に、うーん・・・と考え込んでしまうものがありました。もちろん、ジョーが控えていることを知っているわけだし、それが前提で作られたシーンだから当然なんでしょうが、なんか…運命ってつらい。としか言いようがないかな。八重だけじゃなく尚さまも泣いてたからな…。

とにかく最後の最後までハセヒロさんの演技がすごくて、見入ってしまった。このドラマの中の川崎尚之助という人は、ほんとに八重の王子様以上でも以下でもない役どころだった気もするんですよね、ちょっとドラマのほかの男たちと違って両足が地面から5cmくらい浮いてるんじゃないかな、みたいな現実感のない設定で。これを下手な人がやったら、どこまでもうわべだけの、薄っぺらい、血の通わない人物になった気がするところ、やっぱりハセヒロだよな、と。雰囲気で演じているように見えて、実はかなり技巧的というか、雰囲気で演じてるのかもしれないけどとにかく細部まで演技してるなーという演技。これに、世の女性たちがコロッといっちゃったんじゃないかと思う。私含む。

今日もいろいろ良かったんだけど、とにかく八重の涙を拭う仕草、その指と、そのときの表情がすごかった…。長い指を曲げて、ゆっくりと、しみこませるように拭ってた。八重の涙を拭うのは結婚前にもあったことで、あのときはもうすごく心の距離が近づいていたから、頬の涙に手を伸ばしかけたんだけど引っ込めた。なんたって婚前の武家の男女ですから。結婚してからは、唇に紅を塗ったり、腕をつかんでぐいぐい角場へひっぱっていったり、火事騒ぎの夜に泣く八重の抱きとめたり、三郎の死のあと惑乱する八重を体ごと受け止めて泣かせたりと普通にボディータッチがあったわけですが(ジョーが控えているからか、どうにもプラトニックな印象がある夫婦だけど、こうして書いてみるといろいろあったな)、今は、「これが最後だ」と尚之助はわかっている。

とても疑わしい、信じられないというような顔をしている。八重が自分を訪ねてきたことも、自分のために泣いていることも。まだ触れてもいいのだろうか、自分にその資格があるだろうか、と畏れているようにも見える。けれど磁石のように指が吸い寄せられていく。頬の涙を拭うのは自分の仕事だと。そして、傷つけないようにそっと、最後のときを惜しむように、彼女の顔を目に焼きつけ、涙と頬の感触を指に残すようにゆっくりと拭って、こわごわと抱きしめる。「八重」と初めての呼び捨て(そして八重の「だんなさま」)は、見てる時はちょっととってつけたというか、蛇足だった気がしなくもなかったんだけど、みなさんどうでしたか? まあ私は見終わったあとの心の中の反芻に、あの一言があるのはいいかもなと思った感じです。

ほんとはもうちょっとこの別れの余韻が欲しいとこだけど、尺の問題で来週、襄先生が、京都に上陸。すぐにプロポーズしそうな雰囲気である。まあ、そうなったらなったで、八重同様、尚之助さまの祈りを受け止めて(おまえに言ってない)「新しいときを生きる」つまり、萌え萌えできる自信はあるのですが・・・w 

てか、あの演説でけっこうな寄付金を集めたって史実らしいやん。だってテレビも新聞もポケモンもない時代、アメリカ人にとって日本なんてどこの馬の骨とも知れぬビンボー国、どーでもいいもんじゃないの? 襄先生がすごいのか、アメリカのクリスチャンたちがすごいのか、やっぱり南北戦争戊辰戦争の比喩にぐっとくるもんなのか、なんかよくわかんないけどとにかくすごい。てか、襄先生がとにかくミステリアス。だってあの時代に密脱国するってよっぽどの覚悟でしょ。生きていくの相当大変だったでしょ。で、何がどうなってクリスチャンになって通訳もつとめて教育に目覚めていったのか…捨てた故国を憂うようになったのか…オダギリジョーは予告だけでもどんだけかわいいのか…あんつぁまとの絡みは鼻血なしで見られるのか…がばい、がばいよー!(“がばい”の使い方間違ってます from 「あまちゃん」)。