『八重の桜』 第27話「包囲網を突破せよ」

ちょっとこれは・・・・。6月に入るか入らないかというころから、「鬱展開」というのがドラマのキーワードになっていて、「山」 「川」ってな符牒で忍びの者たちがやりとりするように、「八重の桜」といわれれば「鬱展開」という答えで閉ざされた扉も開きそうな勢いなんですが、のっけから何でこんな不必要なことを書いてるのか自分でもわかんないんですが、鬱展開です。ネットスラングにへたに精通せず健全に生きている我が夫も、昨今の八重の桜を見て「こういうのを鬱展開っていうんだよ」と(私に)教育されています。

ああ、鬱展開だ・・・。なんかこの回、これまででもっともつらかったかも。詰みすぎてる。彼岸獅子なのに! 

なんか、(少なくとも近年は)大河ドラマで感じたことのないようなリアルな憂鬱さがあるんですよね。つまりすごくよくできてるってことですが・・・。

村の方まで逃げたけど、結局落ち着く先のない剛力さんの日向一家。お城の中では「会津のために」「会津みんなの戦」と決定事項のように言ってますが、城の外郭から一歩出ればこんなもんで、農民たちにしてみれば「とばっちり食うのはごめんだから」って感覚。まあお城の中の人たちだって農民たちを「会津の仲間」とは思っていないのだろうし(思っていればそもそも戦を回避しそうだし)、会津藩だけではなく、それがその時代の(特に非常時の)考え方だといえばそれまでかもしれません。

しかし誰にとっても悲しい・・・。もちろん農民にはとばっちり。日向さん一家も、これまでユキさんの、ことさら会津イデオロギーから遠い「呑気で気のいい妹キャラ」を見てきたので(だからこそ潔い死を選ばず逃げ回るのが自然に見えるわけだし、あらためてうまい設定だ)、こんなことに巻き込まれていたたまれなくて・・・。ひとまず炭焼き小屋に、って言ってたけど、寒くない季節っぽいのが救い(でも旧暦だから秋よね)とはいえ、これから食べ物、どうするんだろう・・・?

中野竹子娘子軍。坂下の村に照姫さまが落ち延びた、というのが誤報だと気付いたようです。けれど気づいたときには既に街道をびっしり新政府軍が塞いでて城へ戻れない。先週の白虎隊と似た状況だけど、彼女たちは「敵を一人でも斃してから死ぬ」がモットーなので(震)、近くに(?)いた萱野権兵衛の軍に入隊志願。当然ながら「ならぬ」と却下されると「じゃあここで死にます」と。「まて! ・・・許す」って、ごんべーったらそこで許さないでぇぇぇ! や、でも本気で死ぬつもりだったしな・・・。

ちなみに、これは先週の八重が城で啖呵を切った場面とも対比できるんだろうか? まあ八重と竹子の訴え方にはそれぞれキャラが出てるんだけど、男たちの許し方はどっちも「そんなに言うんなら勝手にやれば」だった気がせんでもない。でもとにかく、狭い屋内ならともかく、城外に出て薙刀で新政府軍の鉄砲と戦うだなんて無謀すぎるんだから止めてほしかった! 突撃の時を待つ間、竹子がやや落ち着きを失っている描写が細くてよかった。あのそぶりがあったから、「城に戻ったら八重さんに鉄砲を教えてもらいましょう」の完全に死亡フラグセリフが浮かなかったと思う(それでもちょっとは浮いてたかしら)。

もしかしたら黒木さんの産前産後なんかで当初の予定より出番が少なかったのかな・・・?なんて思わんでもない中野竹子だったけど、物語的にはちょうどよいボリュームだったような気がする。役にはとても合ってたと思います。最後の殺陣も見ごたえあったし、糸が切れた人形のように倒れ込む姿にもちょっと息をのみました。母か妹だかが介錯して首を持ち帰った、というのが通説だったと思うが、ドラマでは「首をとられてはいけない」と母が言って介錯しようとするものの、やはりしきれずに、(とりあえず、かもしれないが)その場を去った、という描写。母の腕に首を抱かれて戻るのと、戦場に野ざらしにされるのと、どちらが残酷だろうか、いや、どちらもこの上ない残酷さだ・・・だなんて思ってしまいましたね・・・。

神保雪のほうも、あるいは輪をかけて悲惨で、これがなんともいえないさじ加減の描写になっていたような気がするのは穿ちすぎでしょうか。戦場で仲間とはぐれて(このあたりの展開は唐突なんですが)、敵に囲まれ、次に映ると新政府軍の陣に縄で繋がれている。これ、「子どもは気づかなくていいんだけどね」って描写で、大人としてはどうしても、娘子軍を目にしたときの「女だ! 殺さず生け捕りにしろ!!」といういかにも使い道があると言わんばかりの下卑たセリフや、どこか奇妙な繋がれ方から、悲しい連想をしてしまうわけです。通りかかった土佐の吉松さんという人に「不名誉だから」と夫の名を尋ねられても答えない、というのも然り。

彼は雪の絶望と覚悟を悟り、また哀れを覚えて、脇差を与えるのですね。残酷ではあるけれど、「三途の川を渡るときは、誰それの妻であると、堂々と名乗りや」というセリフがすごく良くて、彼の武士の情けというか、せめてもの慈悲のようなものが感じられます。これ、史料に残っているセリフなんでしょうか? ちょっと歌舞伎とか浄瑠璃みたいですよね。脚本の山本むつみさんはなにげに歌舞伎通らしいが。それにしたって、夫婦それぞれがこんなにも悲劇って…。あたら、美男美女が…。芦名星は最初から最後まですごい好演で強い印象を残しました。

雪が刀を振り切るところで、パッとカットが変わって八重が映って、いつもの生気のある顔になぜか安心しましたよね…。さて、時間は戻るが、八重の夜襲。どこに、どれぐらいの手勢で行って、どれくらいの打撃を与えるのが目標で、結果どうだったのか、いまいちよくわかんなかったんだけど(汗 わたし見逃してる?)、大河ドラマのお約束「人を殺したくない・・・」あるいは「殺してしまった・・・」てウジウジ沈み続ける、ていう安直な描写でなかったのには感心しました。いつものように躊躇なく遠くの敵に銃弾を命中させていた八重は、よろけながら出てきた敵の血まみれの顔を至近距離で見てさすがに固まり、幼い日、鳥を撃って絶命させた父の言葉を思い出します。救ってくれたのはもはや瀕死の黒河内先生! 弁慶もかくやの活躍で、こういう場面は悲しくても役者の見せ場ではあるなあと思えます。

で、八重は「自分の銃で敵とはいえ人の命を奪う」ことに無頓着なわけではないと思うんですが、再会した頼母に向かって、白虎隊のことを話すんですね。「私が銃を教えたばかりにあの子は戻ってこないことに」と。このセリフには銃への、ひいては戦うことへの根源的な疑問、揺らぎ・・・みたいなものがこめられているように思えました。それでいて自分のことではなく年若い子のことが口をついてでる八重の人間性がいとおしい。

答える頼母は、事前に軍議(と呼べるほど議論のていを為していないのだが)でまたしても自分の意見が退けられ、妻子はすでに全員自死していて、何ひとつ思うにまかせない状態。夜になりようやくひと息ついて、月明りで辞世の歌を読もうとしていたところ。そんな彼は、八重の言葉に「俺だって敗軍の将だから死ななければならない。だけど死んだ者たちの無念を背負っている以上、簡単に死ねない。生きて会津を守る、強くなれ、強くならないと」と返す。

これは字面では立派な言葉なんだけど、最前の会議でのダメっぷりを見た視聴者としては、それほど心に響かないんですね。「だからどうやって守るんだよ、具体策を出せよ、だいたいおめーがおめおめと負けやがったから・・・」と思っちゃうわけです。そこがキモで、そんなダメな頼母だけど、会津を守りたい思いはこんなにも本物なわけです。武士の名誉のために潔く散ることより、みっともなくても生き残って何とかしたい人なんです。会津を愛してるから。

会津の人はみんな会津に誇りをもっていて、それを汚されるぐらいなら戦って死にたいと思っているわけですが、この頼母は、なんか愛し方がちょっと違うんですよね。第1話で、磐梯山の緑の山並みと美しく実る田畑を容保に見せながら会津への思いを語った姿、あれが頼母の会津愛だと思うんです。山や川や田畑、それを耕す人々も含めた「会津の息吹」みたいなものを頼母は守りたいと思っている。だから会津から出ることも、戦うこともよしとしない。

それは当時にしてみたら異端者で、しかも異端者でも有能であればまだ何とかなったんでしょうが、あくまで無能っていうか愚直なだけの人だから、思いが皆には届かない。それでも思いを曲げはしない。破滅の美学には走らない。己自身、弱く、策も人望もなく、ただ思いしかない。吉川晃司の西郷吉之助が、このドラマ前半において、打つべき手を次々に打って事を運べる英雄だとしたら、頼母は、凡人の代表なんですよね。だから歴史ドラマだと思えばイライラするんだけど、何だか今回で胸打たれてしまいました。そういう存在を体現する役者としての西田敏行の確かさにも。

あまり現実を引き合いに出すのはどうかとも思うんだけど、私たちも、現実に対して圧倒的に無力で、たとえば震災が明らかにした原発事故という人災に対して、誰もが「なくてやっていけるならそれにこしたことはない」と願いつつ、どうにもできないわけで、しかも、頼母ほど思いの強さを保つことも本当に難しいことです。思いの強さを保つこと、ただそれだけでも。

で、軍議での頼母のダメっぷりはダメとして、容保もすごい顔で退けるんだけど、そしてすごい顔で城から出るよう言い渡すんだけど、容保は頼母を、終始、受け容れないようでいて、やはり、どこか一目置いているというか特別な目で見ているような気はするんです。第1話で表明された頼母の「会津愛」を、容保は心のどこかで理解できている気がするんです。そのあたり、脚本はここまで、わざと容保に語らせてないと思うんですけど。だって先週、頼母の姿を認めたときの、あの殿の顔…! あんな顔、そうじゃなきゃ説明つかないもんね?! 

土佐と内蔵助の遺髪を見て悲憤を噛みしめたあとでの「城を出ていけ」通達だったんで、一見、報復人事のような、戦わない頼母に対する憎悪とか、皆の士気が下がることを懸念したようにも見えるんだけど(それがないとは言わないけど)、容保はやはり、頼母にしかできないことを託しているんじゃないかとも思う。

今、頼母の意見を容れることはできない。なぜなら容保は「みんなの殿」だから。先週、死にゆく内蔵助が言ったように、「幕府でも徳川でもなく、会津のために戦いたい、それで死んでもいい」というのが家臣たちの総意なのだから、その思いに応えるしかないと思っている。会津藩主としての役目だと思っている。これまで、皆を京都まで引っ張って行ってつらいめに合わせたのは自分だから。けれど頼母の存在は容保にとって何か別の砦になっているんじゃなかろうか。今後が気になる!!

なので容保と頼母の(一見の)不和はそこまでの悲劇には見えなくて、むしろ一縷の希望になるんじゃないかもと思えるんだけど、城の外で散った竹子や雪もつらいんだけど、見てていたたまれないのが城の中で…。

息子(しかも嫡男)とはぐれてしまって、けれど平馬の妻だからしっかりしなきゃ、と自分を励まそうとする(でも励ましきれてない)二葉。同じく、頑張らなきゃ、と思いはしても、心身の疲れの色濃い八重母。増え続ける怪我人。じわじわと追い詰められていく描写がキツいです。やがてきっと、兵糧も不足し始めるでしょう。そして頼るべき首脳陣があまりにも頼りない。頼母もダメだったが平馬もテンパってるだけで、官兵衛はイキッてるだけ。情報伝達も戦略もまったくもってなってない。ついに尚之助が最高軍議みたいな場にも出て、相手の砲の射程距離とかをちゃんと計算してるんだけど、当然ながら算出されるのは悲観的な見通しばかりで…。

今回、初めて(だよね?)あんつぁまが欠番で、最近、「しばらくあんつぁまイラネんじゃねぃか」と思ってたんだけど、いなくなってみると「ちょ、出てきて−!」て思いました。会津ほんとしんどいんで…。松方弘樹と盤石時代劇やってる一コマは貴重…。来週は枕元に岩倉さんが! てか、1話以来の八重と容保の再会がもちろん一番の楽しみなんだけど! ほんと、ちょっとした希望がないと見てられないっていうか、ほんのちょっとの希望がものすごく大事に思える…。

ってことで、思わず書くの忘れそうになった彼岸獅子です。や、カッコよかったよ、どや顔だったよ、城のみんな喜んでたよ…。でも、意外に抑えめじゃありませんでしたことーーー?! 

まず、なんであんなにもあっさり見過ごされたかってのがちょっとわかりづらかった気がする、旗印のない行列を見て「どこの藩のもんだ」みたいに囁き合う姿が辛うじてあったけど、新政府軍が諸藩寄せ集めの軍で、意外に自軍以外の行動が情報共有されてなかった(その土地の祭りの時期も当然知らないし)、っていう盲点みたいなものか、あるいは、殺伐とした戦地に響く祭囃子で思わず和んでる間に通っちゃった、みたいな描写はもうちょっとあっても良かったんじゃないかと。あと、いくらなんでも大蔵はもうちょっと早くから皆を走らせ始めた方がよいのでは(自分が門に入ってから走らせてたよね)?

ま、大蔵が妻の顔を忘れてなかったことは僥倖でしたwww(や、京から帰ったとき、一度家に戻ってるから当然なんだが)

何より、空気嫁な秋月さんが喜び勇んで殿に知らせに行った時の、あの、容保と頼母の修羅場っぷりですよ。知らせを聞いても凍りついたままの二人ですよ。あれ、完全に、「下手に兵が増えたらますます降伏なんて遠く…」「結局、戻った兵も、今いる城の人々も、このままいったら、死ぬしかないのだ…」みたいな雰囲気が漂ってましたよね?! 無邪気に喜んでる城の人々が何だか悲しく見えてしょうがなかったよ(泣)。そして日光口の戦勝っぷりもすべてスルーされたあげく、最大の見せ場の彼岸獅子入城をサブタイにもしてもらえないどころか、入城自体を次なる悲劇の序章として描かれた大蔵さんの扱いェ・・・・ここまでのサドっぷりを発揮する脚本家が昨今の大河にいたでしょうか?! 戦慄です。大蔵さんがんばー! そして会津の運命…(鬱)