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六月博多座大歌舞伎昼の部「ヤマトタケル」を見て 1

歌舞伎

自分に驚いた。何度も見たことのある歌舞伎の舞台、初めてってわけでもない生・亀ちゃんの舞台だっていうのに、カーテンコール、歌舞伎で初めて経験するスタオベに加わりながら、声を殺して号泣している私がいるとは・・・!

劇中、涙腺がゆるむような気配は全然なかった。もともとあらすじは知っていたし、演出など事前情報もいろいろ仕入れていた。だいたい、ヤマトタケルは神話の人物らしく、天然自然といえば言葉はいいが、軽挙妄動の人でもあり、現代の善良な小市民としては「おいおーい」と突っ込みたくなることもしばしばだ。加えて、亀ちゃんは人情味に訴える役者じゃない。歌舞伎でも現代劇でも大河ドラマでも、亀ちゃんの演技で泣いたことなんて1回もないし、泣かせてほしいと思ったこともない。

じゃあ何の涙だったんだろう、って考えるに・・・後づけの自己分析だけど、とにかく、熱だよな。熱にのまれた。

最初から最後まで圧倒的な熱量にみちた舞台、それを真正面から受け止めた観客たちの喝采。今月の博多座は昼も夜も毎日スタオベらしいと小耳に挟んでいた。それが様式と化してしまっている感じだったら嫌だなと思いつつ足を運んでみると、平日昼の部の客席の大半は中高齢女性、それも多分に高齢に傾いていた。とてもノリで立ち上がるような客層じゃない、もともと博多は舞台の盛んな土地柄でもない。それが、みなさん、立つわ、立つわ。それに号のような拍手・・・あの一体感、充実感は、実際、すごいものがあるわ。

その熱狂のカーテンコールの中、おおぜいのすばらしい役者たちが舞台に勢ぞろいして待っている、新しい猿之助を中央に戴くのを。上演前の饒舌な口上、劇中の怒涛のセリフをものにした亀ちゃんに、もはや言葉は必要ない。万感の表情で客席を隅から隅まで眺めわたす姿を見ると、よくぞやりきってくれた!という感謝と、これを1か月毎日やってるんだな…という畏怖、そして、この素敵な時間がこれで終わるんだな、という寂寥とがないまぜになって、涙が止まらなかった。

とにかく、歌舞伎の舞台は歌舞伎役者のものだよな、と強く思った。口上で、1日にスーパー歌舞伎と古典歌舞伎の両方をやることが、大道具等のスタッフにとってどれだけの負担であるか、役者と違ってスポットライトを浴びることもない裏方たちにも拍手を送ってほしいと強調した亀ちゃんの気持ちはわかる。多くのスタッフや脇役たちがなければ幕は上がらない。それでも、やっぱり、歌舞伎の舞台は、歌舞伎役者を見に行くものだ。

むろん、襲名というご祝儀舞台であり、香川照之というとびきりの知名度をもつ援軍も得ている、それでも、この、芝居の根付かぬ博多の地で、連日満員御礼の札のかかるような上演が続いているのは、主役の訴求力あってこそだ。多くの歌舞伎役者の中でも、亀治郎時代から、とりわけ博多座に立つことの多かった新猿之助である。それは即ち、いかに嫡流から離れているか(現にまだ新歌舞伎座にも立っていない)という証左でもあるのかもしれないが、その地道な活動はいま確実に実を結んでいる。

洋装のままちょっと喋らせてみても、多くの奇天烈な趣味や、一風もにふうも変わっていながら変に堂々とした声明で、たちまちある種の人々を虜にする魅力のある亀ちゃん。クイズ番組や雑誌のインタビュー記事を見るだけでも、もちろんテレビでの舞台中継だけでも、じゅうぶんファン心を満足させてくれる愛すべき亀ちゃんである。だからこそ、役者の魅力は生の舞台において最も発揮されるものだという根本的事実を、ややもすれば忘れてしまうところだった。今回、強く強く、思い起こさせてくれた。

若いころからの老成。予定調和を嫌う天邪鬼。やたら大きな笑い声。どこからきてるのか測りがたい自信。それら、亀ちゃんの「傾き(かぶき)ぶり」が、舞台上で結実する。気魄の役者が、今、澤瀉屋を背負っている。(つづく)