『街道をゆく3 陸奥のみち、肥薩のみち』 司馬遼太郎

街道をゆく (3) (朝日文芸文庫)

街道をゆく (3) (朝日文芸文庫)

早春、鹿児島は父の生まれ故郷である蒲生に旅したとき、観光のためのポスターに「街道がゆく」で司馬が蒲生を描写した一節を引いていたので、これは読まねば、と購入。

「肥薩のみち」の末尾、15ページほどにわたって綴られるのは蒲生の旅だった。司馬は確かに蒲生を訪れていた。鹿児島は維新の英雄たちを多く輩出していて、それらのゆかりを巡るならほとんど鹿児島の中心部、城下だけで事足りるのである。薩摩独特の「外城制度」によって郊外に残る武家屋敷を眺めるにしても、知覧とか、出水とか、川内とか、もっと規模の大きな(大きな遺構の残る)町もあるし、桜島や霧島のように雄大な自然を擁する地域もある。なのに、よりによって、蒲生。

そのころは「蒲生町」と言われていたが、実際はほとんど村だ(その後、平成の大合併姶良市の一部となった)。しかも、蒲生といえば八幡宮の大クスの木なのに、それについては一言もなく、蒲生観光でもどちらかというと脇役的存在である「竜ケ城」や、そこを拠点にした「蒲生氏」に思いを馳せている。さすがだ…。

このほか、「土地は元来が痩地で山林が全体の70%を占める=水田が少ない」 「蒲生士族は紙すきなどをして自活せざるをえず、薩摩藩郷士団のなかではやや貧窮な部類」 「藩内でも純朴で知られ、たとえば有名な関ヶ原の退却戦でも最後まで踏みとどまるなど、どの戦場でも損な役まわりをひきうけてきた」などの描写には、私がわずかに知る蒲生の地域性・・・どころか、そこから出た父の性質さえも、私にとって彷彿とさせるものがある(笑)。ともかくも、確かに彼らしい醒めた筆致で描写してはいるものの、その文章にはおおむね蒲生に好意的なのが感じられた。ポスターに採用したくなる気持ちもわかる。まあ、司馬が好もしく思ったのは、蒲生の「鄙」や「素」や「貧」なのだろうが、まあ、観光もそういう方向ではあったし…(笑)

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さて、当該巻、ほかに収録されているのは「陸奥のみち」。久慈、という地名にピンとくるのはまさにこのひと月たらずのこと*1。久慈市は朝ドラ「あまちゃん」の舞台「北三陸市」のモデルで、毎朝クレジットでその名を見るようになったからである。

南部・八戸から「久慈街道」を南に下る形で旅は進められるが、「沿道に飢餓の口碑が無数にある古街道」という紹介にはぎょっとした。東北といえば震災以前には「牛タン、ねぶた、こしひかり。最上、上杉、独眼竜」ぐらいしか考えたことがなかった。

江戸中期、高山彦九郎の南部旅日記には、「ある里にては、(ある者)餓死せる家に至り、(餓死者の出た家に行って)屍を我に賜へ、我が母餓死の後に返すべし、と云ひて乞ひ求めつる事有りしとぞ」という文章が残っており、司馬は「これ以上は紹介するに忍びない」と書いている。

そもそも、南部が「盛岡を主邑とする岩手県八戸市を含む青森の小さな一部」を指すという定義すらあいまいだった自分。以下のすべてにいちいち驚く。

●南部衆 vs 津軽衆 文化の大きな違い、「南部藩の伝統精神は、津軽に恨みを含み、津軽を極度ににくんだ」

●大正期以降、南部から出た3人の総理大臣。原敬、斉藤実、米内光政。共通点は、「容姿が日本的な矮小さをもたず堂々としていた・ものの考え方がいずれも開明的で、同時代の水準からみてスマートだった・維新の官軍に対する激越な反感という土俗性

●安藤昌益。欧州の人で相当期間八戸城下にいた。「直耕」つまりみずから農具をとって耕すという直接耕作者とその行為以外認めない。直耕者に寄生する行為や階級は「大罪大悪」であり、商人も、儒者も、武士も殿さまも泥棒であり罪人である、とする。

●↑激烈な思想の背景・・・元禄期に八戸に上陸し始めた上方商人が、またたくまに肥え太り、金貸しになって田畑を担保にとって、抵当が流れると山林や田畑を所有する大地主になって農民を耕作奴隷として使役する…という短期間での激烈な変化を目にしたから?

●古代の王朝は「池を作るのが政治」だった。弥生期に稲作が伝来して以来、農地をふやし、人口をふやすことが政権の要。鎌倉幕府も、徳川幕府も「水田主義」である。

●翻って、四国に匹敵する面積をもちながら江戸初期の南部藩はわずか十万石・・・水田耕作に適した地が少なかった。

やがて一行は街道を久慈地域に至る。司馬はその印象を「景色がこまやか」と書く。「久慈川という上流に多くの支流をもった水流が南下して大地をうるおしている小さな平野で、久慈湾という小さな湾まで抱え込んでいる。稲作にも適し、魚介も獲れるという、上代の人間の棲むのに格好の適地である。」

「町には飲食店がない。外食設備を必要としない町」。1970年代前半の旅だから、「あまちゃん」の春子が故郷を出る1984年よりさらに10年前の描写だが、つまり、春子が小学生くらいのときは、そんな町だったのだろう。

*1:2013年4月に書き留めていたメモである