『八重の桜』 第19話「慶喜の誤算」

先日の一連の記事(このへん→ http://d.hatena.ne.jp/emitemit/20130509#1368096301 ) の追記ですけど、私としては、BSや録画を合わせて20%を超えているようならば(たぶん超えてる)、大河の視聴率としてはじゅうぶんじゃないかと考えています。世の中にはさまざまな、それこそ無数の趣味嗜好があるわけで、その中で大河にチャンネルを合わせる人が統計上で20%もいるって、むしろすごいことじゃないかと。てか、それ以上をめざそうと色気を出すと、「迎合」の2文字がチラついて、だんだんおかしなことになってくるんでね(笑)。

たとえば閣僚による靖国参拝とか、憲法改正とか、アジア諸国との付き合い方とかは、日本人ならばこれからもずーっと考えていかねばならないことで、考えるためには、まずもって過去の経緯をできるだけ詳しく、正しく知るのは大事だし(と自戒もこめて書いてます)、原爆投下の日付を知らない中学生を目の当たりにするにつけ「まじやべー」と思うわけですが、それはそれ、これはこれ。大河ドラマを見なくてももちろん歴史は学べるし(むしろ粗悪な大河であれば見ない方がマシかもww)、「歴史のお勉強のために」という動機で大河を見る人はむしろ少数派でしょう。私自身は、子どものころから歴史への興味と大河ドラマとは不可分の事柄でしたけど、それはあくまで私のケースですから。

さて本編はとっても大事なところにさしかかってます。江戸幕府が消滅し維新の世になっていく過程で、なぜ会津が朝敵になってしまうのか、そこんとこ、一見、怪奇現象だし、実際、ほとんどといっていいほど知られてないんで(てか会津が朝敵とされたことすら知名度って…)、しっかり説明しないといけないわけです。ちなみに、大河ドラマたるもの、長いスパンでの放映を活用して、この種の謎を存分に描けるのが醍醐味のひとつだと思っているんですが、そーゆーとこ、ぞんざいに済ます大河がこれまでは多すぎた!!!

今年は今んとこちゃんとプロセスを描こうとしています。つまり「なぜ会津戦争に至るのか」を描くのが京パートで、「いずれ戦争に巻き込まれるのはどのような人々で、どのような暮らしをしていたのか」を描くのが会津パートで、どちらもこの物語を進めていくのに欠かせない両輪であることは自明ですよね。

さて土佐の薄顔後藤象二郎がもたらした大政奉還ネタに色めきたつ会津本陣。輪になって突っ立ったまま怒号を飛び交わせていた面々が、殿がお帰りになると、とたんに静まり、整然と秩序を守って座するのがいいですね。先週ラストで慶喜の発言にあれほど驚愕し、問い詰めもしていた殿が、帰還すると既に「天下万民のための将軍家のご英断」とキッパリ述べるのもツボでした。

後世の目から見ると、「どこまで人がいいのよ殿ったら!」て話なんだけど、これ、NHK公式での孝太郎慶喜インタビューが、なんか良かったねえ。綾野くんと話したそうです。「慶喜は友だちになりたくないタイプだけど、容保は、自分よりもはるかに重いものを彼が背負っているのをわかっていたから、ひどいこと言われてもウソつかれてもついけていけたんでしょうね」と。もちろんそれは美しめの推量でしかないんだけど、そういう面もあったかもしれないなと素直に思えるんですよね、このドラマ見てると。

それにしたって、この時点で「もしもの場合に備えて藩を挙げて出兵する準備を」だなんて、どこまで人がいいのよ殿ったら!(結局)。「嗚呼我が公」ですよ(by大蔵)。臣の鏡すぎる。

容保の意向を神保パパからこっそり聞かされた閑居中の頼母は「とてもとても!」と言下に否定。「守護職を命じた幕府がなくなったんだから職務終了で全員引き揚げるべき」と理路整然としているわけですが、それに応える神保内蔵助の「都では、その正論が通らぬ」というセリフが非常に印象的でした。会津戦争へ至る道を端的にあらわした一言だったように思えます。

なぜ正論が通らないのか、ということを、この場面でくどくどと説明するやさしさは、このドラマにはありません。ただしそこにはこれまでの作劇に対する矜持や視聴者への信頼があらわれています。

もともと御家訓という義のために上洛し、先の帝にその姿を大いに嘉されたがゆえに、そこらの上杉家なんかメじゃないぐらいに「義・原理主義」を強化している(こじらせているともいう)容保。義と対極にあるかのような謀略渦巻く政局に苛立つ、上杉の家中なんかメじゃないくらいに(しつこい)「義の戦士たち」と化している一部の会津藩士たち。斉藤一が捨て台詞を残したように「これまで払ってきた多くの犠牲(特に失われた命)をムダにしたくない」と思ってしまう人情…。京の風雲に身をおく者たちにとって、頼母の正論は「事件は会議室で起こってるんじゃない」としか思えないものなんでしょう。頼母にしてみれば「現場はどっちだ。京か、会津か(後者に決まってる)」って話で、やはりそれは正論なんだけども。

国元では、マッチゲさんの権八が大政奉還について「ご公儀が天下を朝廷にお返ししたっつう事だ」と言えば、八重が「これまではお借りしていたんだべか」と返します。鳩が豆鉄砲を食らったような顔してる八重と、答えに窮する権八。「大政委任論」を「ハカセ」な尚之助が説明したあと、権八が「我らはこれまでどおり御下命に従うだけ」と言うのは、女たちを動揺させないためというより、自分自身を納得させるため・・・と感じさせる演出。

今週は、母・佐久が、進んで少年たちに鉄砲を教える八重に「会津で何が起こるっていうんだ」とウンザリしたような顔で問うたり、薙刀の稽古に来る婦女子が増えている、というシーンもあり、ちょっとしたジェネレーションギャップだとか、国元の動揺についても、さらに一歩進んだ描写になっていましたね。「覚馬さんとの約束」である反射炉の話も蒸し返されて、「覚馬さんとの約束」だけに(しつこい)、尚さまも必死な顔で図面引いてます(すごい細密だった…理系男子…)。

あ、八重が伊東悌二郎の髪を勝手に切った、って、なんだこれと思ったら、史実のエピソードなんですってね。しかし、前髪の端っこをあんなチョッキンしたぐらいで何がまずいのか、イマイチわかりにくかったような。てか、一番の問題は、あのふたりが、白虎隊のけなげさを演出するには、年が、結構いってそうに見えたこと…

京都チームが便りをよこさない、と女たちが愚痴る場面もありましたが、あんつぁまの場合、そこには、もちろん目の問題もあるわけです。上司の風間杜夫林権助が心配して「うちに住んだらいい」と持ちかけてくれたのを、爽やかに断るあんつぁま。ああ、ここでおとなしく従ってりゃ、のちのちメンドーなことにならんかったのに…。まあ、来週はもう鳥羽伏見なんで、どっちみち・・・だったのかもしれませんけど(泣)。会津の面々が覚馬を思いやる様子には、いちいちぐっとくる。みな、心から心配していて、同時に彼の自尊心を大事にしていて。

心配しているのは会津の面々だけではなく、まんをじして小田時栄登場! てか、年端のいかない娘に「押しかけてしまえ」とまで言い含めて寄こす大垣屋さんは、やっぱりカタギの人じゃないってことでOK? 中の人のキャラも手伝って、親切心からだけとは思えません、どーしてもwww

そんで、うらさんの流産のときもそうだったんですけど、ことこういう(歴史の表舞台と関係ない)ところになると、きっかけのエピソードづくりが割と雑になるのがこのドラマの特徴なのかw、またしても「いったい誰よ」みたいなゴロツキが、都合よくあんつぁまを襲ってきて、「吊り橋効果」を提供してくれちゃうわけですね〜ww  ま、歴史の表舞台にくだらない創作エピソードを持ち込まれるより100倍マシなんで、そして萌えと笑いを提供してくれるんで文句ないですがww

飛び道具を持ち出して現場に入ってきた娘っこを、止めるどころか「1,2発外してもいいから撃って撃って撃ちまくれ」とけしかけるあんつぁま ヽ(´ー`)ノ 見事ゴロツキを撃退し、勇敢な少女にご満悦のあんつぁま…に、ゴロツキ闖入前はツンツンしてたがゆえのギャップも手伝って、この時点で軽くオチたよね、この娘っこ。てか、全俺がオチた。んもう〜あんつぁまの罪つくり〜〜〜! 

さて本題の「慶喜の誤算」について、大河で小御所会議を詳しくやるのは珍しくて興味深かったですね。もちろん「最後の将軍」では詳しくやったんでしょうが…NHKよ、今こそ、「龍馬伝」もいいが「最後の将軍」を再放送すべきではないのか。

のこのこ出て行っても薩長のつるし上げ食らうだけかもしれないし、ていうか暗殺でもされたらたまらんし、といって、慶喜は朝議をズル休み。子分の容保にも「俺のマネしとけよ」と言いつけるところが、そして、ちゃんとお着替えまでしといたのに、おとなしくそれに従う容保が可笑しいですね。「嗚呼、我が公」(本日2回目)。

慶喜にしてみたら、欠席したってだいじょうぶだと思ってたわけです。先週、チラと触れていたわりにドラマではやりませんでしたが、神戸開港をはじめとして諸外国との交渉を担うなどして、この時点で慶喜はまだまだ「日本の元首」ポジションを保っていたし、また、ドラマのとおり、会議において、土佐の容堂や越前の春嶽らが岩倉−薩長連合軍と対立することも見越していた。土佐や越前は共和政推進派で、新政府において薩長の後塵を拝したくないわけですから。

「帝が幼いのをいいことに欠席裁判とは」となじる容堂に「不敬な! これらはすべて帝のご叡慮である」と岩倉が返し、春嶽が「まあまあ」ととりなしつつ、容堂に一票を投じる。紛糾し長引く会議に業を煮やした西郷が発した「短刀一本」に老公らが縮みあがって結局は薩長の思惑が通る。

…と、巷間伝わるとおりの大筋で描かれていて、好感でした(しゃれではない)。とはいえ、これでも、現時点で薩長に分があるような雰囲気になっているのは、わかりやすさを優先した演出だろうか。断髪し椅子に腰かけてヤクザな指示を出す西郷、傍らに寄り添う洋装の大山は紅のカーテンの中にいる。慶喜のほうは、彼が立って空いた上座をしばらく映し続ける演出があり、会議後、辞官納地を奏上されて「まだ手はある」と嘯く姿は既に敗色濃厚に映る。

実際は、まだまだ慶喜vs薩長は五分…というか、むしろ慶喜のほうに分があり、だからこそ薩長は討幕の方向に向かわざるを得なかった…というのが定説だろうが、どういうプロセスをたどろうとも時代の流れは薩長に向かったのかもしれないとも思うから、やはりドラマの演出としてはこれが王道ってことになるのかな。小御所会議での薩長のクーデターは、慶喜のもとには事前情報が入っていて承知していた、という説も最近では有力とも聞きます。

まあ、なんといっても、大政奉還王政復古の大号令が、あくまで「途中経過」として描かれるだけでも御の字っていうかうれしいです。思いきり順番が前後しますが、慶喜大政奉還を奏上したためムダになった討幕の密勅(偽勅)を、「使い道はある」といって悠揚たるしぐさで薩摩に持ち帰ろうとするくだり、良かった〜(たぶん史実)。大久保も西郷とツーカーで肚をきめてて、その肚黒っぷりに岩倉のほうがびっくりする構図が、先週の錦の御旗の件のときと逆になっていて、いずれ譲らぬフィクサーぶりがすごい。そこへいくと、ミッチー桂さんはかわいく見えます。実際、このころの謀議謀略という点ではそういうもんだったんでしょうな。

モニカ西郷の蹴り飛ばしても動きそうにないどっしり感と、とびきり頭が良くて、たったひとりで討幕派に拮抗しているけれども雰囲気として「軽い」孝太郎慶喜と。演出のうまさでもあるのでしょうが、両者、巧まずして雰囲気が出まくってる演技ですよね〜。吹けば折れそうなのに、気力だけで持ちこたえているといった感の、究極的なまでの線の細さの綾野容保も、しかり。

京の会津藩士内では、あんつぁまや秋月さんの穏健派と、官兵衛を先頭にした過激派(おロシヤ帰りの山川大蔵もいつのまにかしれっとこっちに?)とが並び立っていることが以前からたびたび描かれていますが、過激派の描写が多少足りないのかなあとは思います。まあ、そこは主人公サイド補正ですかね…。新選組がこの直前、会津藩お預かりから、幕府に直接召し抱えられる立場に変更になったこと(近藤勇は直参に)の説明も省略されていましたね。あ、龍馬(と中岡)はモブによって暗殺が報告されていました。合掌。そして次回、ついに戦端がひらかれます…!