『日本文化の論点』 宇野常寛

日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)

ネットや雑誌への寄稿を面白く読んでいた宇野さんの単著を初めて読む、しかも最新作ってことで、超超超期待しすぎたせいか、思ったよりも質量ともにボリュームが小さかったかな…という印象。もっとも、新書の体裁ありきで書かれた入門編といった雰囲気の本だし、飽きることなく一気に読み終わったので、おすすめできないかといわれればそうじゃないです。むしろ入門編なだけに手に取りやすい一作。

まあ、

現代の日本文化には、実のところこれからの世の中を考える手がかりや、人間という存在についての鋭い洞察とそれを書き換えていく豊かな想像力が渦巻いていると考えています。

情報社会論とサブカルチャー批評とを往復しながら、現代文化批評の入門的な一冊をまとめたい、というのが本書のコンセプトです。しかも、普段は批評や思想に関心をもったことのない人に手に取ってもらえるものを、議論のレベルを落とすことなくまとめたい・・・(後略)

などの意気込みで書かれた本のクライマックス章がAKB48についてで、しかもそれを全肯定ぐらいの勢いで語っているのは、彼が想定する多くの「一般読者」にとって違和感をもたざるを得ないところだろう…。AKBがいかに「国民的アイドル」といっても、そこまでの市民権は得ていまい…。『AKB白熱論争』なら、「あーAKBオタクの本ね」って心の準備があって、「あれっ、それなのにいろいろ敷衍した論になってるじゃない!?」と面白がれるんだけど、この、いかにも社会学的な箱の中で、AKBをクライマックスに持ってこられると、論理の中身というよりも、どうしてもイメージ的に、卑小化しちゃうのよ…。

とはいえ、ニコニコ動画初音ミクやAKB、村上春樹ポップカルチャーサブカルチャーから社会を考えることには非常に意義があると思っているし、とても興味深いです(村上春樹や特撮ヒーローなどの視点からは、著者の別作品で語られているらしい)。

音楽CDに握手会や投票券をつけて売るいわゆる「AKB商法」はとかく批判されがちだけれど、「そもそも歌謡曲をソフトで聴いて楽しむというスタイルはわずかこの百年ぐらいのもので、長い歴史の中で、音楽とは自分であるいは仲間たちと一緒に演奏したり、特別なところに聴きに行くものだった。そのような、コミュニケーションの手段や祝祭的体験としての音楽に、AKBはかなり近い。音楽ソフトの消費を前提として良い/悪いを語ることに意味はない」という指摘は正しく一理あると思う。

また、インターネットについて、

インターネットは映画よりも能動的に扱えるし、テレビよりも受動的に消費できる。そして、その中間の態度で接することもできる。ここで重要なのは、人間というのはそもそも映画が想定するほど能動的でもなければ、テレビが想定するほど受動的な生き物でもないという点です。仮に映画が想定している人間の能動性を100、テレビが想定している能動性を0として考えた場合、人間は0から100のあいだを常に揺れ動いている(あるいは100以上や0以下にもなりうる)存在です。僕の考えでは、ここにインターネットというメディアの本質があります。(中略)この柔軟性こそがインターネットの最大の特徴です。(中略)これまで(20世紀)のあいだは、情報技術が未発達だったために、人間本来の姿、つまり常にその能動性が変化する主体としての性質に対応することができずに、能動的な「観客」や受動的な「視聴者」といった限定的な人間像を「想定するしかなかった」と考えるべきでしょう。

という論は新鮮、かつ腑に落ちる部分が大きい。何につけ新しいものへの拒否反応は必ずあるものだし、何につけ個々の問題点というのは必ずある。インターネットの場合、情報の氾濫等が取り沙汰されるけれど、そこに執着する論は一種の思考停止だと感じる。新しいメディアが生まれれば、新しい情報リテラシーも生まれ育っていくものだ。もちろん、自覚的でなければならないだろうけど。

終章で紹介される「政治と文学」という概念に、自分は興味があるんだなとあらためて感じた一冊。