『古地図の中の福岡・博多』

古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み

古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み

読んだ内容を、備忘のためtwitterに投稿したログです
●1月22日

  • 17:29  『古地図の中の福岡・博多』 読書中。随時、メモってゆきます。
  • 17:32  【古地図本より】 江戸時代、西大橋〜天神橋(水上公園からアクロス側へ)を天神方面に渡ったところに、福岡と博多を分ける枡形門があった。時代劇で時々見られるアレ。高さ10m、長さ700mの石垣・白壁がそびえ、両横に門がある。
  • 17:40  【古地図本より】 江戸時代、大名小前の通りは紺屋町堀、きらめき通りは天神中央公園あたりまで、肥前堀という巨大な堀だった。もちろん福岡城を守るためのもの。
  • 17:43  ていうか34歳の私の記憶にはおぼろげですが、アクロス福岡って昔は県庁だったんでしたよね?
  • 17:49  【古地図本より】 バス停名として残る「赤坂門」は、江戸時代、もちろん門だった。堀を渡す橋を大名側に渡ったところ。同じく、紺屋町堀を渡す橋の大名側には「薬院門」。これは西通り、こないだまでケンタッキーがあったあたり? 現代の三光橋から春吉側に渡ったあたりに、数馬門。
  • 17:54  【古地図本より】 簀子町、荒戸、港の地名、江戸の地図にも見られる。中老、馬廻組など住む。そういえば大濠公園内に能楽堂あるけど、そのあたりが当時「杉土手」にあたるのかな? 能楽師が住んでいた、と本にある。
  • 18:00  .@tzusshi アクロス福岡、元県庁説、事実ですw 1876年(明治9年)完成。上級武士2,3人の屋敷だった土地を買い取って作ったようですね。1981年に千代に移転だから記憶にはございやせんね。親から聞かされて育って覚えてたらしい。  [in reply to TZusshi]
  • 18:02  【古地図本より】 現代の大手町3丁目、「永倉」と呼ばれた福岡藩の米蔵あり。ここに集められたものは、大坂で売ることはなく、多くは家臣に支給されたという。その前には「紙役所」と「炭役所」があって藩内の専売を取り仕切っていた。ここは現在、簀子小学校になっている。
  • 18:06  【古地図本より】 現在の西公園には、江戸時代、なんと「東照宮」があった! もちろん大権現たる家康を祀るアレです。江戸時代、幕府への忠誠を示すため、大名たちは日本のいろんなところに東照宮を建てました。今は、藩祖黒田如水と初代藩主長政を祀る光雲神社になってる。
  • 18:16  【古地図本より】 江戸時代、荒戸の港の役割のひとつは、長崎警備への船団の発着港だったこと。福岡藩佐賀藩が一年交代で長崎港を警護していた。長崎は、あそこは天領なんですっけね? つまり商港でもあるが軍港でもあったということ。
  • 18:20  .@tzusshi ほほ〜う! それも相当小さいころじゃない?! ソラリアプラザができたとき、親が「昔はここで相撲をやっていた」と言っていたのを覚えてるよ。  [in reply to TZusshi]
  • 18:35  そーだそーだスポーツセンターだ! 新古地図、ほんと作れそう! イムズが建つ前は何があったんだっけ? 記憶のある方教えてください @tzusshi  [in reply to TZusshi]

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●2月2日

  • 16:06  【古地図本より】中洲の歴史。1601年、黒田長政筑前国に入植したときは、まだ湿地帯だった。長政が石垣を築き道を作って中島町が誕生。長政の旧領、中津からついてきた商人たちが住み始めた。
  • 16:11  【古地図本より】中洲、中島町は、西中島橋で福岡と、東中島橋で博多市中とつながっていた。名島城下の多々良川に架けられていた橋を解体して東西の中島橋を架けた。福岡城も同様に名島城の石垣を転用したといわれ、これを「名島引」と称する。
  • 16:17  【古地図本より】中洲と福岡・博多を結ぶ東西の中島橋。江戸時代、欄干のある板橋で立派に見えるが、大雨の時には橋が危ないといつも注意が払われ、祇園山笠が中島町を通らないのも、橋が弱かったからとする説がある。敵に攻められたとき、すぐ橋を落とせるよう、わざと弱く作ったのだという。
  • 16:19  【古地図本より】中島町に山笠が通らなかったのは、実際は、中島町は水鏡天満宮の氏子で、櫛田神社とは縁がなかったかららしい。
  • 16:28  【古地図本より】脆弱でも、東西の中島橋は重要な橋で、人々は維持管理(清掃や普請)に駆り出された。宝暦4(1754)年に福岡藩が決めた掃除の負担割は、東中島橋は橋口町(橋を博多がわに渡ってすぐの町)と中島町で片側半分ずつ、西中島橋は中島町と藩の「御門定番」で半分ずつだった。
  • 16:36  【古地図本より】江戸時代、紙や布は使えなくなるまでリサイクルし、生ゴミは土穴に埋めていたが、中期になるとゴミ問題が浮上する。1719年、「川へ塵芥捨て申さざるように…」という藩からの通達が。しかし状況は改善されず、1739年、中島町京屋太右衛門の屋敷裏手にゴミ捨て場を作った。

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●2月3日

  • 13:46  【古地図本より】江戸時代、中洲の最北端、海に面しているところに、藩の「御船入」(船を繋ぐための人造の港)があったが、次第に砂が堆積して使えなくなった。よって1791年、現在の須崎のあたりに「新御船入」が造られた。
  • 13:48  【古地図本より】港としての役目を終えた「古御船入」は1820年ごろ埋め立てられ、「浜新地」と呼ばれるようになり、福岡藩天保改革の舞台のひとつとなった。
  • 13:50  【古地図本より】福岡藩天保改革は藩の赤字財政解消が目的。「御救救済仕組」といって、家中の武士や貧民を救済するため、大量の銀札を発行。流通させるために中島町から浜新地一帯を繁華街として、芝居や相撲、富くじを藩の施策として行った。
  • 13:53  【古地図本より】天保期、中洲中島町から浜新地にかけては茶屋や夜店、芝居所が多くでき、往来の真ん中には桜が植えられ、大賑わいであったという。1834年には市川団十郎の一行が箱崎に着き、籠に乗り換えて博多入りした。けれども最終的に改革は失敗に終わり、関係者は島流し等の処分に。
  • 13:58  【古地図本より】唐人町の歴史。17世紀前半ごろまで、東は黒門川(現在は暗渠)、西は菰川、北は朝鮮半島へ続く海、南は福岡城のお堀、四方を海に囲まれて、浮島のように唐人町はあった。
  • 14:01  【古地図本より】唐人町の地名が初めて出る史料は1627年。それ以前は鳥飼村の内か? 中世の史料には鳥飼や百道の地名は見られるが唐人町はない。1601年、黒田長政が入植してのち定められた地名か。
  • 14:04  【古地図本より】いずれにしても唐人町地域は昔は低平で定住には適さない土地。江戸前期ごろに「須賀」(砂が堆積して小高くなる)を形成し、次第に町が造られたか。文禄・慶長の役朝鮮半島から連行された人々が住み始め、「唐人町」と称されるようになったか。
  • 14:21  【古地図本より】唐人町、黒門橋からまっすぐに続く唐津街道。街道の南は「新大工町」を除き町家。街道より北は武士の宅地。高禄でも500石、たいてい100〜200石などの下級武士。
  • 14:24  【古地図本より】また、唐津街道より北、西奥には寺院が多い。寛永期(1624-51)に荒戸山から移転してきた寺院も。これは荒戸山東照宮(家康を祀る)を建てるためで、都市計画の一環。外からの進入口であり、城下の外郭に寺をおくのは軍事的(防衛の)意味もある。
  • 14:32  【古地図本より】唐人町には1784年、藩校として甘棠館(かんとうかん)が開館。これは庶民の町に作られた西学問所で、武士の町に作られた東学問所が修猷館(しゅうゆうかん・現在も名門として福岡の高校界に君臨)である。修猷館はそもそも、現在の平和台信号付近、三井住友海上ビルの場所にあった
  • 19:47  【古地図本より】荒戸と唐人町の間、黒門川(現在は大半が暗渠)。その堀の末に、「簗所(やなしょ)」があった。川の流れを簗で堰き止めて魚のいけすにする。城下に簗所はここ1か所。管理のため、簗奉行という職制、簗所御仕組が設けられた。
  • 19:51  【古地図本より】唐人町の北西部は枡小屋ノ町。枡小屋とは年貢や酒などを計量するための公定枡を作るところ。安政6年(1859)にはここに囚獄舎が建てられ、慶応元年(1865)の「乙丑の獄」と呼ばれる藩内政変では14人がここで処刑された。その後、明治期に荒津病院、現在は子ども病院。

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