『純と愛』 終わりました

「芸のない最終回ナンバー1」かもしれない「主人公による長い演説・朗読・独唱の類」がまさかの採用。

しかも、言いたいことは結局「神様がいても頼らない」ってことだったんだろうけど、「賢くなりたい、優しくなりたい、強くないりたい…」、「父のように、母のように、兄のように…」、「雨にも負けず、風にも負けず」(全体的にイメージです)……って、えらい直接的だったり、どこかで聞いた響きだったりで、なんかもう、アチャーでした。

さすがにあれを技巧だと思う遊川さんじゃなかろうから、「最後はテクも衒いも捨てて、純らしく、どストレートにいくぜ!」て感じで書いたんじゃないかと思う(思いたい)けど。あの純の独白は、成長であり、覚悟であり、そして希望であったのだろうけど。

聞かされたこっちは、「若者があんなに悲壮な決意をしなければ生きていけない世の中なのか…」って印象で、なんか暗澹としてしまった。いくらイロイロあったとはいえ…。まるで殉教者だよ。

純は「いろいろ勘違いしてる残念な子」としての登場で、それは遊川さんがアンチヒロインを造形したかったからなんだろうけど、その野心的な試みのために、視聴者は、純が世の様々な世知辛さを体験するのを見せられたとき、気持ちのやり場に非常に困るのだった。素直に応援しづらいし、かといって「この親にしてこの子ありだわ」とか「身から出た錆、ね」だなんて、誰が毎朝、そんな荒涼とした感想をもちたいだろうか。結果、私はいつも、自然と一歩引いて見てしまっていたように思う。とにかく、素直に感情移入しにくいドラマだった。

むろん作り手もその辺が弱点になることは承知の上だっただろうから、序盤は、水野の胡散臭い格言とか、桐野のツンデレとか、チカちゃんのゲスとかで緩和し、何より風間俊介の芸達者をドラマの最大の付加価値にして、緩急ある職人的ドラマを展開していたのだ。武田鉄矢若村麻由美の毒父・毒母も、森下愛子の良き妻・良き母の仮面をかぶった毒母も、カリカチュアライズした造形として、ギリギリ面白く見ることができていた。

ただし、それは遊川さんが極端なものをぶつけてくるのがわかっていて、「そういうメガネをかけて」見ているからこその対応であって、免疫がないままいきなり変なもの食べさせられてアレルギーを発した視聴者は最初から少なくなかったわけだけど。

私は当初から、純の造形にもそれほど嫌悪感なかったのだ。いびつな家族の中で生まれ育って、いびつなままで社会に出て、出る杭は打たれて、性格なんてなかなか変えられなくて、それでも、そんな子だって、幸せになろうとする権利は十分にある。いびつな子が夢のある仕事、夢のある結婚を求めて、何が悪い? そんなドラマになるんだろうと思ってた。

年末におじいのホテルが売却され取り壊されたときは、「まだイケる」と思っていたのだ。それが、年が明けてからだんだん「…」となってきて、「こらダメだ」になったのは、愛がその本性を「まるで女神様みたいですよ」と評した「里や」の女将、サトが、突然、ホテルを売却するから客も従業員も即刻出ていけと指示して引きこもり、頑迷なオバサンになったとき。そして、その翻意に至るまでの経緯。

サトのセリフとして、「BGMで盛り上げてる」、「セリフで全部説明しやがって」と、ご都合主義のドラマ批判をさんざんしてきたこの作品が、結局、ご都合主義の要請に屈したんだなあと思った。

家族が崩壊したり再生したりが、このドラマの大きな眼目だったと思うけど、その処理にも不満が残る。武田鉄矢は死んで、森下愛子認知症になって、と、どちらもものすごく不幸なんだけど、そうやって「解決」…というか、問題を「終了」させた。このドラマでは純が次々とすごい不幸に襲われるんだけど、その顛末が、ドラマ中盤からは、非常に中途半端になった感がある。結局精神論が相手に通じて解決するか(天野岩男など)、棚ボタ的、他力本願的な解決か(天草蘭の元夫など)、強制終了(武田鉄矢など)。

カタルシスに欠けるエピソードが多い印象になったのは、ディテールの甘さが目についたからでもある。「視聴者にネタを提供するためのスキマ」ではなく、単なる脇の甘さ・・・というか、「これぐらいでいいだろ」とか「そこはフィクションだから」と視聴者をナメてるんじゃないか?と思われて、楽しくツッコメない。

特に家族の問題について、鉄矢:改心ののち死、愛子:認知症になったことで純真な少女化 という顛末には、ひどく消化不良感が残った。ふつうの朝ドラならそれでもいい。あそこまで描いてきたんだから、覚悟をもって、もっとシビアに描ききるか、あるいは、シビアな中に見える一筋の光を見せてほしかった。

愛くんにしたって、宮古島に渡ってからのダメダメっぷりは目を覆うもので、そこからの立ち直りは純の「ここを愛くんへの愛にあふれたホテルにする」という決意による完全な受け身。妻の夢を共に信じリーダーシップを彼女にとらせて全面的に支える、という形のパートナーだってもちろんいいんだけれど、最後にはそこに真の「対等さ」を感じることができると期待していたのになあ…。「僕の心と体は永遠にあなたのものです」が「眠り姫」状態を指していたのだとしたらがっかりです。

そう、遊川さんは、純を徹底的に苛めるのと同時に、女性信仰的な価値観を強く盛り込むというアンビバレンツでこの作品を描いていて、それは「獅子はかわいい子を千尋の谷に突き落とす」とか、あるいは「天は乗り越えられない試練を与えない」とかいう意図で、彼にとっては矛盾がないのかもしれないけれど、うーん。やっぱり描き方の問題だよね。「女があきらめたら世界は終わる」みたいなセリフが、実感を伴って響かなかったんだよな。

そして彼の女性信仰がちょっと気持ち悪い。男は、暴君だったり浮気モンだったり社会性や甲斐性がなかったりするのに、なぜ女は、「働き続けること」「それでも諦めないこと」「家族を信じ続け、愛し続け、強く優しく賢く存在すること」って、そこまでがんばらねばならんのだ。それができることこそが女性の価値、女性へのエールだったのか? そうは思えない。男の甘えじゃねーかよ、と思った。最終回の純はひたすらかわいそうだった。何が、「一生、待田純であり続ける」だよ。あんなに若くて、病母や従業員を抱えて働くんだぞ。ほかの男を好きになったらいかんのか。遊川は坂口安吾の「堕落論*1を読むがよい。

・・・と、悪口雑言になり果てましたが、それでも、このドラマ完走しましたし、私にとっては「梅ちゃん先生」や「おひさま」なんかよりよっぽど価値ある朝ドラだったのは間違いありません。肩ひじはらずに安心して見られる、予定調和の域内におさまった笑いや涙に終始する朝ドラだって少なくない中、ここまでの毒をぶっこんだ、その意欲や良し! と思っています。

いくつかの見過ごせない問題提起もあったと思います。特に森下愛子とそれぞれの家族との関係には戦慄すべきものがあり、純の家族が(若い女性である主人公だけでなく、親や、妻子もちの兄すら)家や職を転々としていくのも、朝ドラのイメージを超えた現代的な造形で、リアルでした。家族の問題については考えさせられただけに、突き詰められなかったのが残念だったわけです。

ある程度笑っちゃったシーン、心打たれたシーンもありました(いま一番思い出すのは、里やで愛くんが言った「無理だと言わない人が世界を変えてきたんです」のくだり。ド直球なのにぐっときた。風間くんは本当に、すばらしいお芝居をする人ですね)。遊川さんの職人技をテクニシャンの風間くんが、暴投に近い手加減なしの剛速球を、まっさらで体当たりの夏菜さんが担ったのも良いバランスだったと思ってます。

最終回が夏菜の独壇場になったのは、結局、遊川さんが、手もなくなって純に白旗を揚げた・・・と思われなくもない。それでも気に食わんけど。ラストの絵本展開と、「なおったジュークボックス&笑顔のホテル社長・純」の写真で、ファンタジックなハッピーエンドを示唆している、という解釈を誘ったのかもしれないけど、私はそれに救われなかったもん。「最高の離婚」が一見、すべて丸くおさまったように見えて将来はどうなるか…という広がりをも含んでいたのと対照的に、視聴者にすべてを自由に委ねたように見えて、詰んでしまったがゆえの逃げじゃないのかな、と懐疑的になるラストだった。でも、桐野さん主役のスピンオフで向後を明らかにしたら、そしてそれを地上波で放送したら、この憤激もちょっとはおさまるように思いますww

*1:「けなげな心情で男を(戦地に)送った女たちも半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日ではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり…」 「特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない」