『歴史を考えるヒント』 網野善彦

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

「百姓」は農民に限定するべき言葉ではないとか、多種多様の職能民のこととか、わが国の取引の高度な伝統とか。いわゆる網野史学、名著「日本の歴史を読みなおす」でもおなじみの概念が丹念に語りなおされるのだが、この一冊を通じてのキーワードが「言葉」であるということに、後半になってようやく気付いた。

そのことは、與那覇潤という人(肩書は愛知県立大准教授、とある)による巻末の解説で、簡潔にまとめてある。

「網野史学」とも呼ばれる網野善彦の歴史叙述は、マジョリティでなくマイノリティ、端的には農耕定住民よりも漂泊民、遊行民、商工業者や「悪党」たちに光を当てる「もうひとつの日本史」であったと評価されることが多い。むろん誤りではないが、書籍となる前には「歴史のなかの言葉」というタイトルで雑誌に連載された本書は、それが同時に「もうひとつのことば」の探究でもあったこと、いまや私たちの語感からは遠く隔たってしまった史料上の日本語の復元を通じて、過去という他者の言語にであうためのいとなみだったことを教えてくれる。

ちなみにこの解説、本編の輔弼、テーマの掘り下げ、網野の研究全体の俯瞰など、全般にわたってすばらしいもので、私のように浅学な読者にとっては、この解説に対してのみ、お金を払うべきではないかと思うほど。この本、文庫で買ったらたった420円なんですよ?! 新潮社よ、うれしいけど…ちゃんとペイできてるんですよね!?

網野は大学で教鞭をとっていたころ、最初の講義では必ず、「日本という国の名前が決まったのは何世紀か」という質問をしていたそうだ。その確たる答えを知る学生は、ほとんどいない。より年を重ねた読者の私たちもまた、然り。寂しく、いびつな話だなと思う。

二十年ほど前か、「新しい歴史教科書をつくる会」という運動が活発だったことがあった。けれど彼らは、「日本という国号は19世紀にできたものである」としているのである。「自虐史観を卒業しよう」とスローガンを掲げる彼らの、よほど自虐的なことよ、と網野は苦笑する。『教育について』(旬報社 )に収められている宮崎駿との対談で、「最近の自由主義史観について」と問われた網野が

あの人たちは「日本人」の誇りとしきりにいうけれど、本当に「日本」とは何かを考えないままで、「国民国家」としての近代日本の肯定論になっていますから、根本的におかしいと思いますよ。

とばっさり斬る一幕があるのだが、その発言の真意を詳しく読めたのもうれしかった。(当該本の詳しい感想:http://d.hatena.ne.jp/emitemit/20120423#1335185297)

もちろん「つくる会」だけでなく、自分たちの国の成り立ちについてきちんとした知識のないのは私たちも同じだ。

歴史はすべて過去であり、ややもすれば、「そんなことを知らなくても生きていける」と言われたり、“余剰の知識”であるとみなされたりする。

けれど、いま現在の社会や国の問題を考えるとき、それらの問題とどのように対峙し、どのような未来を創ってゆくかを考えるとき、私たちが知らなければならないのは、まず過去の経緯ではないのか。そこには、問題の根源や、論点や、考えるヒントまでもが鉱脈のように眠っている。

網野史観の魅力は、マイノリティに光を当て、多種多様で豊饒な中世という歴史観、「もうひとつの歴史」を解き明かす点だけではない。それらを通じて、「われわれが歴史を学ぶ意義」を、前向きに教えてくれるから。未来に向かう歴史学だからだ。

たとえば差別の問題がある。

偶然だが、ちょうど、この本と並行して、『放送禁止歌』(森達也)を読んでいた。放送禁止歌について考えるとき、差別の問題は避けられないが、差別の問題を解決していこうとする(誰もがそう願ってますよね?)とき、この1冊を読むだけでも、考えの大きな転換が得られると思う。百姓=農民と考えることの誤り、中世の終わり、あるいは近世から始まった差別を受ける人々が、それ以前、中世、さらに古代ではどのような存在であったか。網野史学でそれを知ったとき、ちゃちな差別意識が雲散霧消するような、ひらけた視点を得ることができる。

ラスト前では、「切符」や「切手」、「手形」といった現在も使う商業用語の起源について(なんと古代にあるという)、最終章においては、「切る」「落とす」そして「自由」というような、もはや日常のことばの背景について、興味深い考察がなされる。病を得ることなく、もっと長く存命であれば、彼の研究はもっともっと進んだのだろうなと、あらためて惜しい気持ちであとがきを読み終わった。