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睦月の六 / 勘三郎逝去についての玉三郎の寄稿

日々 歌舞伎

●1月某日: 夫が自分の行きつけの床屋へ、サクを散髪に連れて行く。半年前の前回は、びっくりして夫の膝に乗り、カチンコチンに固まって切らせたというから、夫も理容師さんもナメてかかっていたところ、サクさん、大暴れ。とはいえ理容師さんはさすがプロ、しかもご自身、3歳の息子さんがおられるので、あやし方も心得ていて、息子さんのお下がりのおもちゃで釣りつつ、手際良く切ってくれたらしい。帰宅したサク、「しんかんせん もらったー!」と大いばり。しかし翌日、私と夫との会話で「怖い」という単語が出てきたのを耳にはさむと(全然違う話題だったのだが)、「はさみチョキチョキ こわかった…」と言っていた。夜は新川町の居酒屋で家族新年会。居酒屋というか、小上がりのあるダイニング、て感じ。料理は全部おいしい。なんか、思ったよりすげー安かったんですけど、お店、だいじょうぶか? 店主には4か月になる赤ちゃんがいるらしく、サクのことも気遣ってくれてありがたかった。「よかったらどうぞ」とサーターアンダーギー風っていうか、球状のドーナッツみたいなのまで揚げてくれた。ビールで乾杯したあと二人で赤ワイン1本。「うぺぽ」でグラスワイン1杯ずつ角打って帰ったけど、それでかなり満足できたのは、夫の歯痛やら風邪やらがきっかけで、ここ2,3週間、ふたりとも酒量を減らしていたからかもしれない。いいことだ。

●1月某日: 産院に友だちのお見舞い。母子ともにとても元気そうでひと安心。ずっとねんねだったけど、目元がすでにハッキリ母親似だった。こわごわ抱き上げてみたけど、さすがに抱き方は覚えてた。軽うううい。おむつが小さい! 足が細〜い! 帰宅後、我が子の腿を見て、太さにぎょっとした(サクはサクで小柄な子なんだけど)。一緒にお見舞いに行ったサクは、友だちの顔を見るなり「いっしょに おさんぽ いこー」。3分ほどで、夫と一緒に病室から出て行かせたんだけど、クリーニング屋に行ってもコンビニに行っても、病室に戻りたがっていたらしい。夜、夫プレゼンツのコロッケ〜! 超うまい! その後、酒のつまみに、イカとエリンギの塩炒め。うまい、超うまい! 

●1月某日: 朝から夫とサクは新幹線に乗りに行った(博多〜博多南間の近距離ひと駅10分)。私はその間に家でセルフカラーリング。20代後半から、既にちょっと抜いてもどうしようもないぐらい白髪が出ていた私である。夫は「20代の過労が原因」と言うが、まあ体質なんだろう。まだ30代前半であることを思えばそういうのを隠す(つまり染める)のはマナーかなと思う反面、今さら多少の白髪を他人に見られたところで…とも思う(ここまでひらき直れるところに白髪歴の長さを感じていただきたい笑)。アンチエイジング…気を遣わないわけではないけど、がんばって美魔女になるより、自然に年をとっていったらいいかな、と思うたち。昼下がり、昼寝中のサクを夫に託してひとりで散歩へ。

雑誌に、玉三郎勘三郎への追悼文を書いているのを見つける。「突発性難聴が悪いとき、兄さんはひどいうつ状態になっていた」とある。「共演の約束も、歌舞伎座も、全部ダメになっちゃった」と泣くので、「自殺だけはダメだよ、あの世に行けなくなるから」と励ますと、後日、「耳鳴りがひどいとき、死のうかと思ったけど、兄さんの言葉を思い出して踏みとどまった」と言っていた」と、生々しいやりとりまで。あんなに明るい人でもやはりそこまで落ち込むのかと一瞬驚いたけど、すぐに納得がいく気持ちになった。体だのみの職業であることを一番分かっているのは本人たちだろうし、職業以前に、それまで元気だったのが、急に通常の生活もままならないほどの不調に襲われたときのショックは、自分に置き換えてもどんなに恐ろしいことか。以前、まだ食道がんが判明する前(難聴はとりあえず一番悪い時を越えたあと)、文藝春秋のロングインタビューで、そういえば引っかかった箇所があったな、と思いだした。今もまだとにかく疲れやすくて、勘九郎の息子、なおやくんが初めて歩いたとき、すごくかわいくてうれしいんだけど、見ているとぐったりしちゃって…というようなことを主治医の先生に相談したら、「あたりまえですよ」と言われた、と。あれはやっぱり、うつ的症状のことを話していたんだな…。それにしても、闘病中のうつ的部分については、大竹しのぶ野田秀樹渡辺えりも明かさなかったので驚いたけれど、それを玉三郎ほどの人が誌面に寄せたのは、軽々しい気持ちからではないだろう。葬儀でもとても顔は見られなかったし、焼香も心が(死を受け容れがたく)拒んでいて、形だけのものになってしまった、と書いていた。新歌舞伎座もオープンするけれど、あの人がいなくてこれからどうやっていけばいいのか途方に暮れている、と。

歌舞伎界とゆかりの深い作家・松井今朝子が、勘三郎逝去の際に書いた文章が思い起こされる。「三津五郎を始め同い年の役者たちや橋之助ら絆の強かったチーム、少し年上で今後の歌舞伎を共に守っていかなければならない思いだったはずの玉三郎ら、もっと年上の役者たちも彼の死を嘆かない人はないだろうと思う。もちろんふたりの息子を始め若手役者たちの精神的な打撃は計り知れないものがある。現歌舞伎界では数少ない、人をしっかりと束ねられる本物の座頭役者でもあっただけに、今後の歌舞伎界が直面するであろうさまざまな艱難を乗り切る船頭として、若手からはも大いに頼りにされていたはずだ。かりに舞台復帰は難しいとしても、せめて命だけは存えて後進の指導的役割を果たしてほしかったと関係者は皆さん思うに違いない」