『平清盛』終わりました!!

大河ドラマファンとして、近年になく楽しい一年間でした。あ、最初に断っとこう。以下、超長いです。あと時折、「自分の好きな作品を褒めるために、ほかの作品を挙げつらって貶すのはひどい」のような論調が見られますが、わたし全然比べますんで。むしろ積極的に比べるべきだ、ぐらい思ってますんで。その切磋琢磨、年輪の重なりによって、大河ドラマという伝統あるブランドは高められてきたんだし、今後もそうあるべきだと思ってますんで。

同時に、大河ドラマという同じ看板を掲げていても、年によって、テーマやカラーがまったく異なる作品が放送されることもまた、是としています。それもまた、大河の懐の深さ、可能性への期待を高めてきたと思うんですね。

…しかし実際のところ、近年の大河ブランドは凋落の一途を辿っていたと思うんですよ。視聴率の話(だけ)じゃありません。武蔵〜功名が辻まで2000年代中ごろの作品は未見なので論評できないんですが、時代意識・地域意識が図抜けていた2007年の快作「風林火山」のあと、スイーツ部門の最高峰「篤姫」の後の、「水は低きに流れ、人は易きに流れる」が如き有様たるや。昨年の「江」に至っては、「こんなもんを大河と呼ばねばならぬなら、もうやめちまえ!大河なんて」とまで思いつめましたもんね、大河の猛者としては(笑)。もう、日曜8時のお茶の間で、ちゃぶ台ひっくり返しまくり、おしぼり投げまくり、でしたよ。

そこに登場した「平清盛」。日本には戦国時代と幕末時代しかないのか?!てなリピートに一旦の(本当に一旦でしかなかった…苦笑)終止符を打ってくれただけでもうれしく、放送前に届いた小汚い平氏一門のビジュアルを見ても「おお、やってるな(ニヤリ)」てなもんでした。ただしビジュアル倒れの感がなきにしもあらずだった「龍馬伝」の例もあったので(おっと、アンチ「龍馬伝」ではありません。後述)、もはや猜疑心の強くなってしまった大河ファンとしては、「ここでハードルを上げ過ぎてはならぬ…」と己を戒めていたんです。

しかし、結果的に、「平清盛」は面白い大河ドラマでした。私は「平清盛」が大好きでした。低視聴率が騒がれ、画面が汚いやら(どこが?!)、話がわかりにくいやら(だからどこが?!)と罵られ、とりあえず「異色の大河」としてレッテルを貼られてしまった清盛ですが、どっこい、こんなに大河らしい大河は久しぶり(風林以来)じゃないかというのが、長年の大河ファンたる私の意見です。

なぜなら「平清盛」というドラマには志がありました。「大河でしか、このドラマでしかできない世界を、一年間かけて作るんだ!」 そんな気合がみちみちている大河でした。いくつかのウィークポイントや私の好みでない部分も含めて、完全無欠の傑作とは呼ばないまでも、志の高さが、「ほかでは見られない」感覚をもたらしてくれたと思います。それこそが、大河ドラマの「格」というものではないでしょうか。月9や朝ドラのような大河に、どれほどの価値がありましょう。

まず、オープニングテーマが出色の出来でした。大鎧の清盛、闇に舞う白拍子たち、軍装した武士たちが歩くうしろ姿、そして緑の中で戯れ、浜辺を疾走する子ども。竹にまたがりぴょんぴょんと飛ぶおどけた姿。勇壮、幽玄、不穏など混沌とした中に、無垢な生命力が際立つ。音楽にも、1,2回聴いてすぐに口ずさめるような、耳馴染みのよいものではなく、けれどだからこそ、50回の繰り返しに堪える深みがある。清盛の世界観が見事に表現されたオープニング。見るたびに、禊を受けるような、結界の内側にいざなわれるような、心地よい儀式的感覚がありました。

続いて示された第1話「ふたりの父」。汚れ仕事を担い蔑まれる武士、白塗りに置き眉の貴族たち、自らを孕ませた権力者から逃げまどう女、朝廷のインモラルな愛憎関係、けれど荒れた世に美しいものを見出す父、一面の緑がまぶしい草原や、海に漕ぎ出す小舟。そして父から子への突き放した愛情「死にたくなければ強くなれ!」。ここにもまた、不気味さや妖しさ、それと対照的な、まっすぐな生命の輝き、力強さがありました。

思えばこの混沌が、「わかりにくい」「暗い」「汚い」と敬遠されたわけで、やはり視聴率をとるためには、篤姫ばりの「引き返せない一本道」が必要なんでしょうか。

篤姫」では、大奥から出られない主人公に代わる「幕末の表舞台」担当として、小松帯刀や西郷・大久保ら維新の立役者を配していましたが、薩摩藩士がやたら「突出じゃ!」と叫んでいたぐらいで、小松さんは篤姫に一生ゾッコン。龍馬もお花畑の中から初登場という、徹底したスイーツぶりでした。続く「天地人」は義だ愛だの寒いお題目で主人公をもちあげまくる薄っぺらい脚本で、役者たちを無駄遣いしまくり。「龍馬伝」は意欲は見られたものの、土佐藩の上士・下士関係以外は描くに窮して、後半はやはり薄味のヒロイックストーリーになってしまいました。そして「江」は篤姫の劣化版にも程があり、スイーツの要の恋愛シーンですら惨憺たる…(文章がまとめられぬ…天地と江は今思い出しただけで怒り心頭に…)

とにかく、枝葉のないお綺麗な一本道で成功した篤姫にならおうとしたものの、一本道すら描けずに失敗したのが「天地人」と「江」であり、違ったアプローチをしようとして道半ばに終わったのが「龍馬伝」ではないかと思っています。そこでは、往々にして「戦はいやでございます」とか「浮気・側室問題」とかいう現代的な価値観や二項対立が、掘り下げようのない単純さで提示されるのが常でした。

平清盛」がオープニングテーマおよび第1話の段階で見せた混沌は、明らかに「一本道大河」に対するアンチテーゼだったと思われ、私が興奮したのは、まさにそのことに対してです。今年こそ、幼稚でなく、多面的で、咀嚼のしがいがある大河が見られる! しかも、平安末期の禍々しくもエネルギッシュな雰囲気は、これまで見たことのない、まったく新しいものでした。

そう、「平清盛」を語るとき、美術に関するスタッフの仕事は外せません。画面の隅々にまで美意識のゆき届いた画作りは、大河はおろか、ドラマ史の中でもトップレベルだったのでは。「坂の上の雲」や「カーネーション」といい、この分野ではNHKの技術力、遂行力は抜きんでている。もちろん、予算の違いもあるのでしょうが。

この画作りは「龍馬伝」からの流れを受け継いでいるところが多く、あちらと同じく、「人物デザイン」というポストがもうけられ、やはり同じく柘植伊佐夫が務めました。ただ髷を結うだけでなく、きらびやかな着物を着せるだけでない、まったく新しい扮装の概念。ひとりひとりの髪型、メイク、衣装に拘り、徹底的に人物を表現する。質感幕末の志士たちを描く「龍馬伝」が“汚し”中心の扮装だったのに比べ、こちらではより多くの人種が描かれました。たとえば同じ貴族でも、王家の人々と摂関家とでは雰囲気が異なり、同じ貴族でも摂関家と新興貴族でも異なり、平氏という同じ一門でも、「王家の犬」であった父の時代と、のしあがって「平家」になってからではまったく異なります。

そのような多様性、複雑さの見事な表現は、「龍馬伝」の一年間あってこそだと思えるのです。柘植氏が「伝」の収録中にしたためた日記を出版した『龍馬デザイン』には、扮装の革命というべき「人物デザイン」の産みの苦しみが克明に記されています。美的センスや創作力といった職能部分についてだけではありません。NHK職員が作る、しかも良くも悪くも伝統的な、職務分担のはっきりしていた大河ドラマの制作現場に、局外の人間がポンと入って、衣装部や美術部、かつら部、大道具小道具…といった部署を横断し統括していくための、ゼロからのシステム作り、協力体制の構築にかかわる苦心惨憺は、読むだけでひと仕事した気分になるほど。

その一年間の「人物デザイン」の仕事が、現場スタッフにも、また視聴者にも受け容れられ、評価を得たからこその、「清盛」での再登板だったのでしょう。ここには、21世紀の大河ドラマにふさわしい年輪の重なりが見られます。

もちろん扮装だけでなく、画面全体で目で楽しませてくれる大河でした。儀式考証の成果の、夜の入内。檜扇で顔を隠しながら、先導する女官の手燭に導かれて仄暗い廊下を歩いてゆく新しい后。夜のシーンはどれもすばらしく、四隅の篝火に照らされる舞台とか、長い幕で作られる通路とか、(月を映すわけでないのに)月明りのさしこむ廊下とか、華やかさも怖さも、あるいは儚さも、自由自在に見せてくれました。そのほか、御簾や几帳が家格や家風をあらわす部屋の中のしつらえや、時に繊細に、時にゴージャスに使われる花々の数々や、庭で歩き回る猿や鶏などの動物や…枚挙にいとまがありません。

平家カラーである赤も、保元・平治のころは勇ましく、時が下るに従って不吉なイメージになってゆき、都を震撼させる禿たちのホラーテイストな赤、最終回の題字の血飛沫のような赤…忘れられない色合いがたくさんあります。

実は、「龍馬伝」第1話でプログレッシブカメラ?とやらの映像を初めて見たとき、私は強い拒否反応を覚えたものです。こんな繊細な映像美、映画ばりに斬新な演出は大河ドラマとは相いれない、大河の骨太さを損ねるものだと憤っていましたw。それが今や、すっかり慣れきり、もろ手を挙げて賞賛し、「これぞ大河!」なんつって、当然のようにこのレベルを求めているオノレがいますwww。ほんと勝手なものです…

何より、画面にあらわれる世界の多様さに圧倒されない芯、――「平清盛」ふうに言えば“軸”ですね――を当初の脚本に感じられたのが僥倖でした。物語の発端となる貴種流離譚自体はオーソドックスながら、父母である中井貴一吹石一恵の瑞々しい演技と伊東四朗演じる白河院の怪物ぶりはこの物語の軸になりました。その後の源平の御曹司対決や海賊討伐にしろ、あらすじに難しいところはそれほどなく、むしろ「少年ジャンプ大河」と言われていたように、流行りの冒険譚を感じさせるほどわかりやすかったと思います。うーん、大河に求められるのは少年漫画でなく少女漫画なんですかね? その脇で繰り広げられる王家・摂関家の楽しげな倒錯世界(笑)が忌避されたのでしょうか。

多くの登場人物を愛情をもって描くこと、対比やリフレインを通じてインパクトや奥行きをアピールしてゆくこと、藤本有紀の脚本の特徴は、最初の数話ですでに形になっていました。低視聴率とは裏腹な、Twitter上にあらわれた大量の大河bot(新聞記事にもなりました)や、関連ワードの#(ハッシュタグ)の盛り上がりが、「平清盛」の興味深い現象とされていますが、私はキャラクターの描き込みや遠大な伏線は、むしろ大河ドラマの王道だと思っています。

だって、そのための大河ドラマなのです。一年間かけて、遠い時代に生きた人々の人生を、長いスパンで描いていけるのが大河の醍醐味です。過去の歴史を手繰っても、魅力的な大河では、必ず大勢の人物が時に主役を食うほどの魅力を発していました。また、因果応報や、数奇な運命、繰り返される悲劇、避けられない歴史のうねり…そういったものを描くがゆえの「大河」ドラマです。

「江」では、オリジナルストーリーで物語を貫いていた伏線を「視聴者は一年間も覚えていないだろうから」という理由で排除しています。まあ、その伏線とて大して素敵でもなかったんですが(汗)、このエピソードこそ、「篤姫」以降に陥りがちだった一本道(をやりたい)大河の陥穽を端的にあらわしていると思えます。Twitterのサービスだって何年も前にブレイクしているのです。有名bot、タグのひとつもなかったとすれば、そこにはやはり、人物描写の浅さ、物足りなさに対する反省もあってしかるべきではないでしょうか。現代の視聴者のうち、ある一部の層は、魅力的なキャラがいれば勝手に食いつき、弄り倒すもんですからね! 

私が手放しで「清盛」を評価したくなるのは、一本道大河からの脱却を明確に志していたゆえです。一本道(ふう)大河は、視聴率的には強いと思われていました。篤姫しかり、天地人しかり。ただし「江」ではさすがに翳りが見え、コアな大河ファンならずとも脚本に対する疑問符がつけられるようになります。そこで、清盛は、より質の高い一本道大河をめざすのではなく、まったく違う道を選びました。もとより知名度の低い時代です。多少、難易度が上がることも想定内だったでしょう。それでも多様な作品世界、長い伏線を描くことにした。その意欲や良し! それでこそ大河ドラマです。

主人公を引き立ててくれそうもない、強くてかっこいいライバルの登場(第3話「源平の御曹司」)。見事な映像表現の中で行われる父世代の源平の対決、そこで浮き彫りになる、対照的な父子の姿(第4話「殿中の闇討ち」)。海賊、兎丸の登場(第6話「西海の海賊王」)、清盛の正室・明子と継室・時子の登場(第7話「光らない君」)、前半の強敵・悪左府頼長の登場(第8話「宋銭と内大臣」)、そしてラスボス後白河の登場(第9話「ふたりのはみだし者)」と、物語を彩るバラエティ豊かな人物たちが次次に顔見世する序盤には、わくわくさせられました。

その後、劣情が原因で世を捨てる西行や、明子の死や、御曹司たちのろくでもない求婚や、エア矢(完全に清盛の神輿的中!より強く記憶されている)や、日曜8時のお茶の間でまさかの「アッ―――!」が描かれた家盛決起や、死者に鞭打つ悪左府、ズタズタにされる父・忠盛、一門のゴタゴタののちに父が没し、清盛が棟梁になるまでが描かれた約2ヶ月は、主人公が熟するまでの期間と思えば確かに長かったかもしれません。名場面も多かったが迷場面も多かった(笑)。

しかしそこから夏に向けての物語、第20話「前夜の決断」から第28話「友の子・友の妻」まで続く「保元・平治の乱編」(と勝手に名付けた)は今思い出しても高揚してきます。名だたる大河ドラマの名場面に伍して譲らぬ戦乱絵巻だったのではないでしょうか。多少、少年漫画ふうの語りが多かったがなw

去就を明らかにしない清盛を「賽でも振って、さっさと決めよ」と焚きつけ、いざ戦が始まる夜には、玉体をおおぜいの兵たちの前にあらわし「新しき世の始まりである」とアジった後白河天皇の異端の天皇っぷり。父や兄弟たちを悉く敵にまわすも、ただひとり駆けつけてきた乳兄弟に向かって、ほっとした顔をしながらも「遅いではないか」と主の矜持を保ち、勇んで言う「出陣じゃ!」のかっこよさ。第23話「叔父を斬る」、いずれ劣らぬ凄惨な中での源平の対比は、藤本有紀お得意の技がもっとも冴えた場面のひとつだったでしょう。

戦には勝ったけど…と落魄の色甚だしかった義朝が、頼朝によって生気を取り戻してゆく過程。一心不乱に政務に励む信西の襲撃に始まる平治の乱。床に並べられた算木がガタガタと揺れて敵の襲来を告げる引きは見事でした。盟友の晒し首を見上げる清盛の声にならぬ慟哭。源平の対決。重盛と悪源太義平との待賢門合戦を始め、名乗りも華やかな平安末期の戦闘シーンは新鮮でした。そして、賀茂川を挟んで対峙する紅白の両軍…からの、砂浜における源平棟梁の一騎打ち(微笑)。

雪の中、乳兄弟と刺し違えて果てた義朝の最期。みどり児の牛若を抱いて投降する常磐池禅尼の藤本版・助命嘆願。清盛と頼朝の2回目の対峙、「まことの武士はいかなるものか見せてやる!」そして、戦にのぞむ兵士のような強いまなざしの常磐を、微笑して押し倒す清盛!キャー! 「平清盛」前半のクライマックスは、本当に、本当に盛り上がりましたな!

そこからは位人臣を極め、栄華をほしいままにする平家の全盛期ですが、意外に際立った印象はありません。平家納経、厳島社造営、五十の賀での日招伝説が映像で見られたのはうれしいことでした。納経づくりの細密な映像美は美術スタッフの真骨頂。そうそう、崇徳院が日本国の大魔王となった夜は、ロンドン五輪、柔道の疑惑の判定劇があり、中継終了→清盛開始までの時間、なし崩し的にテレビの前で過ごしていたTLの清盛クラスタをも震えあがらせましたね。大河を見ているとこんな不思議なシンクロがあったりします。

やがて徐々に忍び寄る落日。福原の箱庭にひきこもる清盛。その遠隔操作によって棟梁業が困難を極め、胃を痛めてゆく重盛には限りない同情が集まり、藤本版「平家にあらずんば人にあらず」の森田剛を絶賛する声があふれました。禿のホラー。彼らに襲われる最期まで、架空のキャラである兎丸をしっかり物語の中で機能させたのは流石。「梁塵秘抄」誕生秘話も好きなシーンでした。

とはいえ、後半の作劇の物足りなさは、毎週述べたとおりです。鹿ケ谷の露顕後の、西光との対峙。重盛の「忠ならんと欲すれば…」。祇園女御の「いかがにござりますか、そこからの眺めは…」と、その後の仏御前との淫蕩。伊藤忠清の諫言と、怒り心頭でも彼を斬れなかった清盛の“ぶれ”。見るべきところは役者の熱演や趣向を凝らした演出が主になり、得意の対比やリフレインも小手先の技巧に感じられることがたびたびでした。

夢中で生きる人々を描くことに専心した、ということなのかもしれませんが、あれだけ歴史がうねるはずの後半には、前半ほどのダイナミズムが欠けていたと言わざるをえません。死した人々の志に囚われ逃れられなくなる頂に立つ者の孤独はよく理解できましたが、そこに清盛の偉大さが感じられなかったのは個人的な悲しみです。この物語の清盛は、従来のような悪役イメージは払拭したけれども、数々の歴史的・革命的偉業がありながら、「武士の世の嚆矢となった」という漠然とした功績以外、偉人としての印象を残さなかったのではないでしょうか。もとより人格破たん者である後白河はともかくとして(笑)頼朝の台頭までの長い無様な時代と、いざ立ってからの唐突な英雄化も困ったもので、歴史も人物も、最後は書くのに窮している様子が見られました。

ただしこういった事態は「清盛」に限った事ではありません。名作として名を残す数々の大河にも、中だるみや後半の失速は数多ありました。加えて、内容に見合わぬ異常ともいえるバッシングが続く中、作り手の苦労は例年と比べても生半可なものではなかったと想像されます。惜しいところは色々あれど、一本道大河と訣別し、大河らしい志で最後まで物語を語りきった藤本有紀を始めとする脚本制作に関わった人々に感謝したい思いです。

そして気になるのは大河の今後です。大河に限らずテレビドラマの視聴率が下落傾向にある事実は変わりませんが、そんな中、『それでも、生きてゆく』や『カーネーション』、『リーガル・ハイ』、『ゴーイングマイホーム』など、視聴率にかかわりなく高評価を得るドラマが、数少ないながらも確実に生み出し続けられています。Twitter等のSNSを始め、ネットで盛り上がりを見せるのがこれらのドラマの特徴で、何か深いものを感じ取りたい、感じたら語りたい、ほかの人の感想も合わせて咀嚼し、さらに感動を深めたい、愛すべきキャラを弄りたい、補完したい…テレビが主導権を失う一方で、そういった欲求もまた、かつてないほど高まっています。

「姑息な人気取り」「見苦しいナルシシズム」など酷評する向きもありましたが、「平清盛」の公式サイトやTwitterアカウントのマメさ、パブリックビューイングなどに積極的に取り組む姿は、もはやお茶の間のものではない、新しいドラマの楽しみ方を作り手みずからが提示していくものでした。不人気、低視聴率とマスコミが騒ぐほどに、打開策として、作り手がこれらの新しい手法に力を入れ、それが、視聴者側のbotや盛絵、ハッシュタグなどと結びつき、(もちろん一部のファンにではありますが)圧倒的支持を得たムーブメントになってゆく様子には興味深いものがありました。

これらは、登場人物の多彩さや良い意味での複雑さなど、「咀嚼して楽しむ」ことができるドラマであればこそ、叶った盛り上がりです。そこには、「大河ドラマだからこそできる」スケールやディテールと、テレビを通じた新しいつながり方、伝統と革新とが同居していました。ただ、「テレビはお茶の間で見るもの」という保守派や、「大河はきれいな一本道がいいよね」という篤姫派が数多いのもまた事実。そこいらへんを、今後、NHKがどう考えて、どういう大河を作っていくのか。10年後に振り返ったとき、「平清盛」が大河の歴史の中でどういう位置を占めているのか。もちろん私としては、「平清盛なくして21世紀大河の隆盛はなかった」と言えることを祈りつつ、長い駄文を締めたいと思います。各キャラ、各キャストについては、時間があればまた別項で…。確実に年を越しますが。