追悼、勘三郎

起床して訃報に触れ、思わず叫んだ。先月、術後の経過から肺に疾患を生じた旨の報道があり、復帰までの道のりの険しさを感じてはいたけれど、ここまで病、篤かったとは。

最初に見たのは1989年の大河ドラマ武田信玄今川義元役。置き眉にお歯黒の、子ども心にはやや滑稽に映る扮装で、けれどプライド高く老獪な東海道の大大名を演じる様子は、小川真由美平幹二朗と同じく、あの大河の魅力的な毒々しさだった。桶狭間で奇襲を受けて、雷雨に打たれ、やがて血まみれ泥まみれになりながら敵兵の指をかみちぎりつつ、「都へ、都へ…」と口走って息絶える凄惨な最期は、今なお忘れ難い。うちの両親などは、「あの勘九郎坊やが、こんなになるとはね」と詠嘆していたものだ。今にして思えば当時は33歳。今の私と同じ年頃だったのか!

10年後の「元禄繚乱」はほとんど見ていなくて(悔やまれる)、ただしその年の紅白歌合戦の司会で、ものすごく広く深く愛されている人なんだなという印象を強くし、それはその後もずっと変わることはなかった。

本業の歌舞伎では、勘三郎襲名披露公演をテレビでやったのをいくつか。一條大蔵卿の“アホかわいさ”、一同の口上もすばらしくて録画を何度も見なおした。身替坐禅も良かったなあ。

あとはゲスト出演的な映画やドラマをいくつか。思えばそれほどたくさん、この人の芸に触れてきたわけじゃない。

なのになぜか、いつも近しく感じていた気がする。何せ愛すべき人だったので、中村屋に密着するドキュメンタリーがあればつとめて見るようにしていた(そして毎回まちがいなく面白い)し、書籍もいくつか読んだ。それ以外でも、とにかく見る機会が多かった。情報番組で取り上げられることも多かったし、盟友の野田さんや串田さん、大竹しのぶはもとより、三谷さん、クドカンなどの演劇畑や、宇多田ヒカルまで、交友は広く、あらゆるところで話題にのぼるのだった。

コクーン歌舞伎、芝居小屋「中村座」、進取の気に富みアイデアと実行力にあふれ、そのうえで18代続く中村屋の伝統を深く肝に銘じている。誰もが気にかけてしまう愛らしい稚気のようなもの、ぱっと映っただけで何か人を楽しい気持ちにさせるものがある。とても華やかで、偉大さもじゅうぶん感じられるのに、なぜかとても親しみやすい。馥郁たる香気、なんて表現はこういう人に使うのかな、というような役者、稀有な人だった。

57歳。まだまだ長い芸の道を歩んでくれるものとばかり思いこんでいたいた。毎年、「今年こそ大河に」とも願っていたし、新歌舞伎座が落ちつけば必ずや、勘三郎としての初大河をクレジット大トメで!と念じていたのに。

洩れ聞く報道だけでも、最期の闘病は本人にも家族、周囲にも、すごく厳しいものだったのだろうなと想像され、胸が痛い。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。