『平清盛』 第46話「頼朝挙兵」

【よかったところ】

●宇梶さんの頼政平治の乱では義朝の浅慮を見限った形でドライな人物として描かれていたようだが、「勝ち馬に乗った」のではない、平家の強大な力に抑えつけられてゆく「生き永らえた苦渋」が、宇梶さんのたたずまいから滲み出てた。老いて挙兵し、死んでゆく姿も、言葉少なな中に重厚感があって大河ドラマらしかっただけに、「清盛は宝か災いか計りかねていた」のセリフを最期に言わせたのは役者がかわいそう。

●佐藤仁美の八条院。あんな高貴な女人(院ですよ、院。待賢門院、美福門院、上西門院、建春門院…と並ぶ身分の高さ)が表着をパッと脱いで以仁に着せかけるシーン、悲報を聞いたあとの蒼白な顔に涙。以仁のことほんとに大事だったんだね〜と伝わってきた。「家政婦のミタ」と同じく記号的役割しか与えられていないない人物のようでありながら、終わってみたらこっちは心に残ったわ。佐藤さん、あの年齢ですんごい貫録。

●盛国の「やめーーーい!」。役柄上の要請とはいえ、ずーっと「静」の演技ばっかりの上川さんなので、久々にかっちょいい「動」の演技に、すっとした。たった一言だったけど泣

●頼盛、忠清にセリフのあったこと。ふたりともせりふまわしが上手いから喋ってくれるとうれしい。忠清の侍大将姿も久々でしたな。遷都案に子どもたちが疑問を呈したことも良かった。重衡役の辻本さんという人がすごく雰囲気ある。気のいい(深慮のない)お坊ちゃん、て感じがいい。あと、清盛の「皆のはたらきあって不埒者を討ちとった」の言葉に、すかさず得意げに頭を下げる宗盛。アップにしないところでも細かい芝居があるとうれしい。

●時子。時子も後半は出番が少ないがいつも良い演技をしている。側女と睦み合う夫の邪魔にならないように清盛邸に入らない時子。時子の微笑みには、側女がどうこう、というよりも、変わらぬ気持ちで夫を慕い、影ながら支えてきたのに、いつのまにかこんなに隔たってしまった…というような淋しさが表れている感じだった。

●西行。アレレな役柄だったけど、これで帳尻合わせかな。しみだらけの顔もせりふまわしも意外に良かった。男子3人の家飲み回想シーン、懐かしかったですね〜。

松山ケンイチの演技。言わずもがな。

【首をかしげるところ】 

●頼朝、やっとこさ挙兵へ。しっかし、ここに来てもすごい受け身なのね。嫁や舅や東国武士たちに焚きつけられて、やっとこさ担がれるのを承知した、みたいな。あの無言の小さな「こくん」で挙兵開始ですか! や、孤独な清盛に反して、周囲にいっぱい人がいる、っていう対比なのかもしれんけど(でも頼朝は為政者の孤独の正統な継承者でもあるのよねえ?)。「私は初めて清盛の国づくりに疑問を覚えた」って、やっとか! しかも状況的に、ここで疑問を覚えるんなら、これまで疑問を覚えなかったのがすげー不思議なんだけど…。ま、岡田くんがすんげー眉目麗しくて眼福なのは確かです。

●うすうす予想されたことではあったが、遷都の様子の映像がない。歴史上まれに見る一大イベントなのに〜〜〜! 嘆く貴族や、打ち捨てられて荒れた都も、セリフでの説明のみ。福原新都も図面のみ(この図面はさすがにちゃんとしてた。福原は狭くて、平安京みたいにきれいな正方形じゃなかったんだよね。十条取れなくて、七条くらいまでしかなかったとか?)。遷都した実感がないから、「都返り」って言葉が全然ピンとこない。

●このあたり、「本作は歴史を巨視するのではなく、どこまでも人を接視することを目的としている。だから清盛(やほかの主要登場人物)の眼に映らない遷都や人々の恨みごとやなんかを映像化しないのは道理」って意見をネットで見たんだけども。うーん、確かに意図的なもの(というか、映像化に予算が足りないのは明白なので、映像化しないですむ作り方を…と逆算して考えた結果がこの筋書なのかもしれない)だとしても、私はやっぱりそれはどうかな、と思う。自らが生きる現代を俯瞰することはなかなかできない。だから歴史を、過去の時代を俯瞰したいと望むのではないのか。年によって様々なカラーがあるにしても、歴史の俯瞰こそが大河ドラマの大きな役割のひとつだと私は思ってきた。人間を接視するのが目的なら、歴史に題材をとる必要はかなり薄まると思う。もちろん、この大河がきっかけで歴史に興味をもつ人もいるのだろうけど・・・。

●それはラストの清盛の独壇場に対する感想にもつながっていて、あの松ケンの熱演・怪演をもってして、また、主人公を美化せずおそれずにその「闇」を描いたことによって、「神回」と絶賛する向きもあるようだけど、私には必ずしもそうとばかりは思えなかった。好みの問題という一言で片づけるべきなのかもしれないが、以下、つらつらと。

もちろんドラマなんだから「人物」を描いてナンボだし、動かせない時系列の中でどのように人間を生かすのかが作り手の腕の見せどころで、このドラマは何よりそこに注力してきた。一回も欠かさずこのドラマを見てきた(ハハハ…)私には、なぜ清盛がこうなってしまったのか、きちんと納得がいっている。災いのもとと言われた子ども時代も、棟梁になって叔父を斬ったとき、友を討ったときも、彼は常に孤独の中にあり、それは誰にも分かち合えないものだった。常に死者の存在を忘れることなく、死屍累々の上に立つからこそもっとも高みにまでのぼらなければ彼らに申し訳ない、という思いの強さから、やがて死者にのみ親和するようになる。松山ケンイチはそんな清盛を一貫して見事に演じてきたと思っている。

でも、そんな清盛を、そんな主人公を、そんな平家物語を私は見たかったのか?という疑念が私の中で時々強まる。今回もそうだった。なんか清盛がとても哀れ、かわいそうに思えるのである。哀れこそ平家物語の基調だけれど、私は昨年末の予告を見たときからこのドラマは新しい清盛像を描くのだとばかり思っていた。海を切り開いてゆく若く小汚い清盛の絵から、年間を通じて雄々しくたくましい姿を想像していたのだ。「清盛が増長した理由こそが新解釈じゃないか」とか「たくましい時期もあったじゃないか」と言われたら、ちょっと困る。

これまで多くの登場人物がかっこよく、哀れであっても必ず見せ場を与えられて死んでいったドラマだから、これから清盛も救済されるのだろう、「遊ぶように生きる」気持ちを思い出すのだろうとは思う。物語はもう最終盤なのだし、清盛の描き方に対する結論は留保すべきところなのだろう。とはいえ、かつてしょぼくれていた義朝が清盛と戦うことで生気を取り戻したことを彷彿とさせながら、頼朝の挙兵により救われるのだろうな…と予想すると、そこでまた少し萎える自分がいる。

●このドラマの伏線の多さ、キーフレーズやシーンのリフレインや呼応は、面白いところはあるし、そういうのが全然ないよりは大河らしくていいと思うんだけど、あまりにもやりすぎて、あるいはやり方の問題なのか、「伏線回収のための筋書き」のように見えるのがつらい。清盛=白河院のイメージも、毎週見てるとそこまで繰り返すか、と、いささか辟易する。仏御前を的にした矢を、今にも放たせようとしたシーンなど、「あー結局それがやりたかったわけね」って感じだった。

●「源氏の魂」や「新しき国づくり」「武士の世」といった言葉も、かつての「上杉の義」に近いレベルで空虚なお題目に聞こえるようになってしまって残念だ。

●息をつく場面、小気味良いやりとりがすっかりなくなって(かろうじて弁慶あたりに少し見られるか)、ダークでホラーでバイオレンスなテイストが延々と続く終盤を見ていると、大枠としての清盛のダークサイド落ちは当初からの企図通りだとしても、作り手の心理が投影されてるんじゃないかとすら思ってしまう。放送当初からあれだけのバッシングがあったことで、脚本家を始め、陣営の核にいる人たちこそが出口の見えない暗闇にとらわれ、その中で後半を作っていたんじゃないか、と。フレッシュなはずの源氏方のほうも、政子以外はどうもうじうじしてたし。

●細かいところを挙げると、徳子のキャラがいまいちわからない。少女のころは(時子腹の)兄たちの誰より賢明、という描き方だったように思うが、父の闇にはまったく気づいていないのか…。高倉院と平家との橋渡しをしようとしているようではあるが、(それほど描写の濃くなかった滋子と比べてもなお)頼りない雰囲気になっている。思わせぶりに登場した仏御前の扱いも意外に軽かった。