今日もブログ書いてます 3

と、書くことの良さを喧伝してきましたが、私、ブログを読むのも大好き。常時たくさんチェックしてます。

それでつくづく思うのは、書くものには“人となり”が表れるということ。継続して読むうちに、有名なブログであろうとなかろうと、書き手と知り合いであろうとなかろうと、どのようなテーマのブログであろうと、書き手の「人物」をイメージするようになるよなあ、ってことです。

どんなブログでもそれぞれのカラーがあります。いつのまにか、「この人らしいな」とか「へえ、そんな面もあるんだ」とか、自分で規定した書き手の人物像と照らし合わせて、感想を持つようになるわけです。

果たして、その人物像は正しいのか?といわれると、わかりません。でも、「全体も細部も間違いなく理解している相手」なんて、ふだん顔を合わせている中にだって、そう多くいないのでは? ご近所さんや、職場の同僚、仕事相手、めっきり会っていない古い友人・・・眼に映るほんの一部から「こういう人だ」と判断するのは、オンラインでもオフラインでも、基本的には同じなのです。

となれば、自分が決めた「こういう人だ」をもとに、「この人、好もしい / いけ好かないなあ」なんていろんな感情をもつのも、オンラインとまったく同じ。

ここで、やっと冒頭の質問に返ることができました。「実は好きじゃないのに、ずーっと見てるブログってありますか?」 

あります。それが私の答え。これが、オンラインとオフラインとで異なる、摩訶不思議なところです。実生活で、必要もないのに苦手な人に近づいていくなんてまずないのに、ネット上では、ついつい見ちゃうのね。

私の場合、ひとつは、大河ドラマの感想ブログ。過去の作品については「そーだそーだ!」と快哉を叫びながら読んでいたのが、その方、今年は口を極めて清盛を罵るもんだからさー。もうすごい上から目線で罵倒なさってるんだけど、「いやいや、思い込みでしょ」とか「それは好き嫌いの問題やん」とか思っちゃう。でも、もともと筆力のある方だし、大河ドラマ歴が長いから知識も豊富で、ハッとするような視点もあったりするから、やっぱり読んじゃうんだよね。

反駁しつつ得るものもある、っていう例。たぶんこれからも読みます。

もうひとつは、いわゆる身辺雑記のブログ。パターン1、たとえば宗教とか政治とかについて強いポリシーをお持ちなのが見受けられ、なんとなくついていけない。これはまあ、説明不要ですよね。実生活と同じです。

厄介なのはパターン2で、その人は、自分のありのままの暮らしや思うところを、飾らず、自然に書いているだけなんだろうけど、どこか引っかかる、という。その引っかかりを突きつめると、自分自身の中にある優越感だったり、劣等感だったり、劣等感の裏返しの優越感が刺激されてたり。嫉妬してたり、「理解できない。おかしい」って思ったり。およそきれいな感情ではありません。

この場合、最初はそんなことなかったのが、だんだん、読むのがしんどくなってきてることに気付く。書き手のことを嫌いなのか?と聞かれると、「うーん」。大嫌いなら多分読まない。「この、人でなし!」とか「許せない!」て感じじゃないんだよね。

自分のブログを自分仕様にカスタマイズする、と書きましたが、それは誰でも同じこと。つまりブログって、「自分ありき」「自分中心」で、エゴが強く発露する場所なんだと思う。そこで、書き手のエゴと、読み手である自分のエゴがぶつかる。

ぶつかるといっても読むだけで、何かを強要されたり、現実的な摩擦が起こるわけじゃない。というか、読むことすら、強要されているわけじゃない。実害がないと思えばこそ読んでしまうんですかね。読んだあとの不快感は「ああ、やっぱり」。予想できているのに読んでしまう。その不快感を確認するために読んでいるのではないかとすら思えるほどです。不思議な感覚。書いてあることへの違和感や不快感を通じて、人のエゴと、見えない格闘をしている。つまり、結局は「自分」「自分のエゴ」があるからこそ、イヤ〜な感じを受けるのです。

そう気づいてからは、このタイプの「好きじゃないブログ」、速やかに読むのをやめるようにしてます。エゴの強い人間だからこそ、無意味に精力的なブログ活動を展開wwしてるわけで、であれば、他の人にエゴがあるのもまったくの道理。誰だって自分がかわいいのです。人と比べてネガティブな気持ちになるのは不毛で非生産的。そーゆーので懊悩するのは若者の仕事、私はもはや堂に入った三十路ではないですか。(続く)