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本気で本気を引き出す人よ・4(完)

(動画はvol.7まであります。“完全版”がおすすめ)
翌日、とある休み時間。「A(わたくしの旧姓)はいるか」と教室の入り口に西村先生が立っている。書くだけ書いてとりあえずの溜飲を下げていた私は、日をあらためての先生のおでましに戦慄した。「思うところを正直に書いたまで、何もやましいことはない」と自分を励ましながら立ってゆき、しかし「すわ、怒鳴りつけられるか」とびびりあがっていた私に、先生は真顔で「読んだぞ。先生が悪かった。なんも知らんであんなこと言ったのを謝る。教えてくれてありがとう」的なことを、高圧的にでも、卑屈にでもなく、大きくも小さくもない声で、短くも長くもなくストレートに言った。私は意外な展開についていけず、ぼうっとしながら「はぁ、はぁ」と頷いて席に戻った。ちなみに先生は次の体育の授業の冒頭に、女子全員に対して同様の謝罪をした。

当時の私は、アルバイトという校則で固く禁止されている(いちお進学校だったからね)行為に精を出している負い目が常に心にあったので、そんな自分がエラそうに先生に意見し、しかも謝られたことに驚いて、思わず「うぇっうぇっ(嗚咽)先生、謝ったりしないでください、実はあたしは平気で校則を破っているしょーもない生徒なんです(泣)」と洗いざらいぶちまけそうになった(笑)…が、こらえた。発覚したら停学確実だったので、保身に走ったことを後悔はしてない(笑)。

ともかく、この謝罪で私は勝ち誇るというより、先生の態度に感銘を受けたほうがよほど大きかった。私はラグビー部員でもなければ生徒会役員などでもない、先生の直接の管轄下にいるでもなければ、ほかの生徒に対して何か大きな影響力をもつこともない、ただの目立たないひとりの女子生徒だった。なのに、この骨の髄まで体育会系が沁み込んでいる人は、一寸の虫の中にある五分の魂を何のてらいもなく認めたのである。

これは私本人以外は誰も(先生も)覚えていないだろう小さな、とるにたりないできごとであり、この件をきっかけに私が先生に個人的になついたり仲良くなったりしたようなことも一切ない(なんせこちらは学校に対して負い目があるので)。でも、私にとっては大きな、忘れられない事件だったし、おそらくは、多くの生徒が、しかもラグビーや華々しい学校生活とは無縁であっても、なんらかの日常のひとこま、エピソード、先生の挙動に対して、「この人は本物だ」と感じたことがある者は多いと思う。

ドキュメンタリー中のインタビューで印象的だったのは

「自分は、強制の先に自主があるという考え。最初から自主ありき、で指導する先生もいる。どちらが上かというと、最初から自主、のほうだと思う。そちらのほうが難しい。教える側が、まず待たないといけない、我慢しないといけない。自分にそれができるかといわれると、現時点ではできないだろうと思う」

という語り。自分のやり方こそが唯一無二、絶対であると確信しているのかと思っていたので、「これがベストではないが、自分にはこれしかできないので」とでもいうような言辞には驚きもあった。でも考えてみれば、指導こそ熱血・スパルタではあったが、先生本人に押し出しの強さを感じたことは意外なほどなかった気がする。

もちろん、20代という当時の年齢を考えれば当然でもあるが、ほかの先生たちや保護者に対しては謙虚で礼儀正しかった。「俺はここで一番強い部活をもってるんだから」的な自信をちらつかせるようなことはなかった…と思う。いつも厳しいからわからない、というわけではなく、気分の波を感じさせない人だった。入学してきた生徒たちが行儀作法にうるさい校風に慣れれば、授業中でも休み時間でも冗談を言ったり生徒と親しく話をするようにもなった。

このドキュメンタリーでも、長い取材期間の間、取材者(映りはしないが若い女性っぽい)に対しては常に威儀を正し、ていねいな言葉づかいをもって応対している。こういう先生だったよなーと思う。先生、先生と書いているが、先生の一人称が「先生」なのである。「先生はなー」「先生が悪かった」「先生はそげんなことが一番好かんったい!」怒るときも謝るときも、ラグビー部員に対しても、「おれ」とか言わない。つねに先生。実は含羞の人だと思う。

つながりの薄かった私ですらこれだけ強い印象をもっているのだから、ラグビー部のOBがのちのちまで先生を崇敬するのも当然だろう。早稲田大のラグビー部のHPでメンバー紹介を見ると、毎年必ず筑紫高校のOBが何人かいて、「尊敬する人:西村先生」と書いている。ドキュメンタリーでは、「先生の写真を今でも手帳に入れている」というOBも登場する。あれ絶対やらせじゃない、ガチだと思うわ。そこまでいくとまるで教祖様のようでちょっと怖さを感じるのもまた事実だが、まあ先生自身があれだけ高潔だから、心配することはあるまい。

ラグビー部員は一般生徒よりも十倍も百倍も先生の良さを知っているだろうし、あるいは先生の短所、欠点も知っているだろう。実際、クラスメイトのラグビー部員と話しているとき、先生の批判めいた言葉をチラと聞いたこともある。また、先生にほとんど影響されなかった生徒や、あいつなんて大嫌いだった、という生徒がいてもおかしくない。それでいいんだと思う。教師に完ぺきを求めるのは不可能だし、求める必要もない。それぞれのとらえ方、咀嚼があって正しい。

私は、「人間は甘えの動物」、「自主性の前に、猛練習で実力と自信をつけるのが最優先」に共感する。そんなモットーを掲げるのは容易くとも、長い日月を通じて実践させることの難しさを想像し、それをやり続ける先生すげーと思う。一方で、やっぱり縛りすぎじゃないのかな、とか、試合前に泣くなや、とかも思う。

全国王者と比べると、スケールの違いは確かにあるだろう。余裕はない。いまだ自主にはたどりついていないかもしれない。でも、目標の大小、レベルの高低について、外野がしたり顔で講釈を垂れたって、本人たちには何の意味もない。だいたい、全国王者以外のチームは、すべてどこかの時点で負けるのだ。一番になるなんて、それぐらい珍しく難しいことだ。

だから結局のところ、教育って、生徒が「何を乗り越え」「何を得たか」って問題に帰結するんだと思う。指導者に求められるのは、「生徒の100%」をどうやって引き出すか、また、その100%のキャパシティを、どうやって拡大していくかってこと。あの先生は、生徒の本気を引き出すために、本気で実践し続ける人だ。私はその資質と努力に深く感動する。いい先生ってけっこういるけど、あそこまで本気でぶつかってくる人ってなかなかいないですよ。

その「本気」に感じ入って、苦しいことを乗り越えた生徒がたくさんいるんだと思う。すごく外側にいたけど私もその一人。高校時代の思い出って、あの種の「本気」と直結してる。いやーな感じ、ではあるけど、根っこには共感する、あの「本気」。それは常に身のまわりにあった。それと時に戦い、自分なりに咀嚼しながら、私は私の高校生活を全うして、目標であった旧帝大に現役で合格したのであーる。…と、なんか手前味噌なオチになったところでこの長い話おしまいです。