『図書館の神様』 瀬尾まいこ

図書館の神様 (ちくま文庫)

図書館の神様 (ちくま文庫)

正直なところ、読んでいる最中はさほどぐっときていなかった。文学の香りも、文章の魅力も、際立つ個性も、とりたてて感じなかった。

でも、読み終わった今は、かなり感心している。

世間では「癒し系」に大別されているようなのだし、傷ついた主人公が再生していく物語、という「あらすじ紹介」はまったく間違っていないのに、そこから連想されるウェットさとは無縁の小説だった。まず、主人公の傷つき方がかなりやさぐれていて、なげやり。作者の自意識が投影されてなくて、むしろ、主人公を突き放して書いているという感じ。

文芸部の垣内くんが言う「毎日筋トレして、走り込んで、サーブやレシーブの練習して、体育会系の部活なんて毎日同じことの繰り返しじゃないですか。文芸部は何ひとつ同じことをしていない。僕は毎日違う言葉をはぐくんでいる」ってセリフのように、チャレンジングな言葉がところどころに。しかし、そういうのでわかりやすく盛り上げるのではなく、つとめて淡々と処理しようとしているように見える。

そして、圧倒的な読後感の良さと、そこはかとなく残る余韻は、そのような示唆の散りばめ、積み重ねによるものだと思う。

この、一読して易しい物語、人によっては、さらりと読んでさらりと忘れるような物語に、実は作者はすごく強い思いを込め、工夫を凝らしていると思う。正しさということについて、癒しと再生について、読み終わってみると、少しのセンチメンタルも、あるいは説教くささもなく、至極すんなりと受け容れることができた。

で、「図書館の神様」って誰? って話なんだけど。

それはただひとりの文芸部員である垣内君というわけではなく、作中に出てくる漱石や川端や周五郎の作品そのものというわけでもないと思う。もちろん、垣内君の存在や、色あせない名作は、結果として欠くべからざるものになったのだけど、そういう、「これ」と明示される西洋的な唯一神ではなく、もっとほわーんとしたものじゃないんだろうかと思ってる。あとで振り返って、「あのときって、実は神様がいて、自分を見ててくれたんじゃないか」と思うようなことって、実際にあるじゃないですか。垣内くんや本、それらを通じて、意図することなく自分自身と対峙しつづけたこと、そういうすべてを内包したものの象徴が、きっと図書館の神様なんじゃないかなー、と。