1年

この日が近づくにつれて、落ち着かない気持ちになっていた。

天皇陛下が追悼式に出席されるというニュース。半日近くかかる手術をして1か月も経たない人のすることじゃないように思うけど、今上の陛下の人柄を思えば驚きには値しないぐらいの出来ごと。内閣府原子力安全委員会の委員長、つまり政治家が「疲れた」と言い残して辞めても、陛下は文字通り命尽きるまで国民のために祈る。それが今のこの国なんだと思う。もちろん、祈りをささげる立場の皇族*1と、現実の煩瑣に追われる政治家とでは、疲労の質は違うだろう。しかし、政治家にとって国民に届く言葉がいかに重いものか、その「疲れた」が、どれほど国民の気力を奪い、落胆を招くか、知らない政治家のなんと多いこと。

ニュースや新聞でも、あの日を境に失われたあまりに多くの命、一変してしまった生活を余儀なくされ続ける人々の苦しみについて、再び大きく報道される日々だ。それらに接するだけで苦しいけれど、そんなことで苦しいといってしまうのはあまりに弱く、むしろ失礼なのではないかと思う。

「あの日を風化させないように」なんて活字が躍るのを見て、たった一年で風化なんかするわけないじゃないか!なんて憤る反面、この苦しい気持ちを、最近になってあらためて思い出しているのは、これまで少しずつ、記憶や共感が薄らいできていたことの証左なんだろうと恥じるところでもある。

また一方では、全員が立ちすくみ、息をひそめ動きを止めても仕方がないのだし、前を向ける人は向く、元気を出せる人は出すのも大事なのだからとも思う。

どうせたいしたことはできないんだから、という無力感も、やはりある。原発も、手つかずの瓦礫も、家に帰れない人々も、政治も、思えば思うほど打ちひしがれた気持ちにもなるし、「忘れない」「がんばろう」「復興」と叫び続けることすら空々しく思えるときもある。

企業や団体、芸能人のサイトや広告なんかに、「ご冥福と復興をお祈りします」と判で押したような文章が載っているのも、なんだか真摯に見られなかったりして。まるで時候の挨拶じゃないか、それさえ書いておけば、と思っていないか、なんて穿ってみたり。

今年の今日は日曜日だった。家族で静かに過ごしたかった。でも、街なかで反原発派の大規模なデモ行進が予定され、職場から周辺の警備にあたるよう指示を受けた夫は出て行った。もちろん原発のない世の中を願う気持ちは同じだが、何も今日、叫ばなくてもと思いもした。多くの命が奪われた日からたった一年しか経っていないのだ。苦しみが続いている人もあまりにも多い。ただ静かに悼み、偲び、祈るべき日じゃないのか。とはいえ、原発に対する政財界の態度を見ると、今日この日に行うインパクトを欲するのもわからないでもない。

とにかく、心が乱れて、何をどう思うべきなのかもわからなかった。

NHKtwitter公式PRアカウントの中の人が、「この日に向けて、局ではいろいろな特集を放送しますが、ショッキングな映像も多く含まれているため、今はまだ見られそうにない、という人は、決して無理に見ようとしないでください」と呼びかけていた。私は、何ひとつ自分の身に受けてはいないけれど、見られないと思った。ヘタレなので。在校生の大半が犠牲になった大川小学校の児童の写真が順に映し出された、と、誰かのツイートを見ただけで胸がふさがれて仕方がなかった。今日もできるだけ、震災に関する報道は見ないでいようと思っていた。心の中で祈ることにしようと。

でも、夫がいないので向かった実家で、少し見た。新聞と、NHKだけ。津波で孫を失った祖父の、「この一年、孫が何度も夢に出てくる。大きくなったな、と抱き寄せようとして、でも重みを感じられないまま、目が覚める」という言葉。幼い娘ふたりを連れて京都へ避難しているお母さんの、「娘たちがこちらの方言を覚えていくのを目の当たりにすると、ここの人たちに気にかけてもらい、大事にされて、ご縁ができたことに感謝する気持ちと、やはり帰りたいという気持ちとに引き裂かれる」という言葉。やはり家を失った60代と思しき女性の、「最後には、阿武隈山の近くに帰ると思う」という言葉。たくさんの涙を見た。

そして、歌を見た。NHKを含めた各局で「歌の力」と称して人気者たちが歌う番組も、この日までにいくつも放送されたけど、今日NHKで見たのは、被災した人々が自ら歌う歌だった。雲仙などかつて災害に遭って、そこから再び立ち上がった人々が、今度はこちらから祈りを送ります、と歌う場面もあった。東北出身の芸能人も、それぞれあちこちに駆けつけていた。人気者の歌が歌われることもあれば、童謡もあった。

ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井事務所がやっている継続的な活動、毎日のように震災について書き続ける糸井さんや、気仙沼に事務所の支部まで立ち上げてしまう行動力なんかを見ていると、本当にすごいなと思うし、これぐらい”本気”の人じゃなければ、簡単に震災のことなんて語るべきではないんじゃなかろうか、と思えたこともあった。

でも、そういう人の動きを見続けることや、「忘れない。忘れていないよ」と声を上げること、思うだけでも、それしかできないのだとしても、そこにはやっぱり意味があるのかもしれない、と今夜は思っている。

*1:ただし今の陛下の公務への献身が如何に並みはずれたものか、というのは衆知のところ