『江』第42話「大坂冬の陣」

宮沢りえの淀、薄暗い私室で初と対座しているときの脇息にもたれかかるゆるりとした座り方や喋り方がすごくよかった。いつも大坂城の大広間の上座でピシッと座っている姿ばっかりだったが、こういうくつろいだ姿の中にある貫禄が、権力のある熟女感をさらに表現してた。鎧姿は若干大股に動きすぎでないかと思ったが。和睦を結んだあと、内濠まで埋める徳川への怒りでわなわなと震えるような演技も良かった。

夫が久しぶりにチラ見していたが、やはり尼姿になった初の美しさにびっくりしてたよ。和睦の使者のシーンもすごくきれいだったけど、端折りすぎだよねえ! 

江ちゃん・・・きれい・・・でも出番が少ない上に謎のシーンばっかり・・・古今こんなにかわいそうな主人公いたか・・・?

ひとつひとつのシーンは、それなりに感動的なようでいて、流れとして見れば、やはり首を傾げてしまうというか、すっきりしない。

それは、この状況で秀忠が大阪城に乗り込んで、秀頼&淀に直談判することの荒唐無稽とか、そういうのを超えた抜本的な問題なのだ、たぶん。

豊臣方は滅びゆくものの哀れや美学。秀忠はアイデアリズムや偉大な父をもつ二代目の苦悩。家康は老獪な狸。そういうふうに描こうとしてるんだろうけども。

たとえば、淀殿が「人の心はかくもはかないものか」と洩らす相手が、なぜ、秀忠なのか。秀吉と秀頼への偏愛ありきで、天下に固執してきた彼女、彼女こそがエゴイストであるのに、今さら他の大名らの変心を嘆くその述懐を、視聴者はどう捉えたらいいのか。聞かれた秀忠も、その問いに対する答えは持ち合わせていなくて、「とにかく命が第一です」みたいなことしか言えない。

大坂城に砲を打ち込まれて覚醒する秀頼、彼のシーンは確かにどれも印象的なんだが、これまで自分のメンツは二の次にして天下を平らかであれと願ってきた彼が、ここへきて自意識のために城を枕に討ち死にの覚悟をさだめるのを、単純に「潔い」とか「哀れ」とか思ってしまっていいのか。いくら浪人が主力とはいえ、十万とかの兵がいるわけでしょ。

だいたい狸親父の腹の底を見抜くのが遅すぎる秀忠は、悲劇的結末を避けようとがんばるのはいいんだが、出陣させてくれるよう親父に請うたかと思うと、草刈正雄の家来に成りすますなんて姑息な手(笑)で大坂城に入り込むとか、やってくることがむちゃくちゃ。口を開けば秀頼に関白をすすめたり、「城の外にも未来はあります!」とか、耳障りはいいんだけど、この期に及んで夢物語のようなことばかり・・・。そしてあらゆる交渉に敗れて挫折感・・・って、おい。物語的に、こてんぱんな挫折は関ヶ原一回でじゅうぶんじゃないのか。仮にも徳川方の将、しかも将軍なのに、あんな無様な無精ひげで帰るとかありえんし。

そして肝心要の主人公は、遠き地での徳川と豊臣の争いに胸を痛めつつ、夫や姉たちや娘の安否を案じつつ、ここ江戸にあっては子育てに悩んで・・・いるんだろうけど、描写が薄すぎて脳内補完なしでは見られない。「前へ前へ進むだけ」というのがキャッチフレーズだった(?)勇ましい少女時代から、成人すると「意志をもって流れに身をまかせる」というよくわからない生き方を語るようになり、それからさらに10年以上経ったであろう今は、今は・・・なんかますますわからない。

豊臣にしろ徳川にしろ、おびただしい数の人間の命を握っているのに、その緊迫感がどうにも感じられないのだ。秀頼にしろ秀忠にしろ、籠の鳥の自分とか、いつまで経っても親父に勝てない自分とか、モラトリアムすぎ。現代的価値観が持ち込まれるのはあるていど仕方がないと思うんだが、それしかないと、「どこが大河なんだ」ということになる。

まあ、そういうスイーツ大河でも、一年にわたって貫かれているもの、作り手の志のようなものが感じられれば、それはそれでありといえよう。けど、その場その場の見映えをさせることに汲々とした結果が、この、“大詰め”感の無さ・・・。逆に、たま〜に思い出したように見てる人のほうが、「ほうほう、ここまで音楽とかせりふとか大げさってことは、今までによっぽどいろいろあったのね」的に、想像を膨らませて楽しめていそうだ(笑

・・・・・・。
とはいえ、来週の宮沢さんの最期は楽しみです。予告で大竹しのぶが語ってたが、あの名役者を飛び道具のように使う演出も贅沢すぎてイマイチ好感がもてないんだよなあ。ともあれ役者はみんな、すごい苦労があろうがかなりの奮闘だと思う。