ひとり“三浦しをんエッセイ”フェア

風邪ぎみで、体がだるいとき。二日酔いで、頭が重いとき。生理痛で、動きたくないとき。活動的に過ごすのはすっぱりあきらめて、思うさまゴロゴロしながら本を読む日にしよう、と決める。

すると、「これもまた悪くない一日だな」と思える。「たくさん本を読んでえらいねぇ」みたいなことを言われたりもするが、本を読むってそれなりに時間のかかることで、つまりその分、家事雑事その他の建設的活動に費やすべき時間を圧迫しているわけなので、むしろ、うしろめたさすら感じるのが私にとっての読書なのである。でも、今日は具合が悪いから、どうせがんばれないし〜〜〜。うむ、なかなか良い大義名分だ。

先日もそんな折があり、子どもも布団の上で遊ばせ、随時適当に相手をしながら日がな読書にふけった。いちお体調が悪いのは事実なんで(って、言い訳口調・・・)、難解な本はそぐわない。こういうときは、軽みやおかしみがあり、しかしそれだけじゃなく、人生の真髄(?)をも、そこはかとなく感じさせてくれるようなものが合う、というのが経験則である。ちなみに、好きな本は何回も何十回も読むので、購入した本の元は取れるタイプだと思う。

もっと若いころ・・・20代前半ごろまでは、こういうとき、よしもとばななの登場回数が多かったのだが、いつのまにやら三浦しをんにとってかわっていたんだよな。スピリチュアルよりは、断然オタクに共鳴する我が性質。文句あっか。

てなわけで、この日も、しをんのエッセイ読みまくり。調子がいまいちの腹を抱えて笑いまくり。でも笑うだけじゃなくて(って、言い訳口調・・・)、、

勝負に負けても自分に勝てば、人生はそれなりに楽しい、ということだ

桃色トワイライト (新潮文庫)

桃色トワイライト (新潮文庫)

たとえば、『桃色トワイライト』の終盤に出てくるこんな一節が、私の琴線に触れるのだよ。そうだ、人が幸か不幸かというのは、境遇とか状況とかじゃなく、まして生まれや育ちでもなく、やっぱりその人自身が決めるものだよな、とポンと手を叩かせてくれる。この、それなりに含蓄のあるフレーズが、いったいどんな文脈で出てくるかってことが(笑)。

短いのから長いの、白いのから黒いのまで、さまざまな小説を精力的に執筆しているしをんさんだが、エッセイ集の出版もこれまでどおりお願いしたい。『○○力』っていうタイトルの本はいまだにイロイロ出てるようだが、さしづめ私は、『妄想力』とか『オタク力』の効用を、しをんさんから学び取っていると思う。村上春樹ふうにいえば、三浦しをんのエッセイを読むことは、人生の小確幸のひとつなのである。

夢のような幸福 (新潮文庫)

夢のような幸福 (新潮文庫)

しをんのしおり (新潮文庫)

しをんのしおり (新潮文庫)

人生激場 (新潮文庫)

人生激場 (新潮文庫)