『村田エフェンディ滞土録』 梨木香歩

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

何度目かの再読だけど、やはり、最終章で押し寄せてくるいくつもの波に胸が詰まった。万感胸に迫る、というような表現は、この小説のラストのためにあるのではないかと思ってしまう。

ぎりぎりまで装飾を削ぎ落としたような、素っ気ないまでに簡素な文章なのに、ため息の出るほど美しいとも感じるのはなぜだろう。短い章立てで進みゆく物語は淡々とした印象なのに、最後には言葉も出ないほど感動するのはなぜだろう。

私たちは、主人公の村田に、ほとんど完全に意識を同化させて読んでいる。19世紀末の日本人留学生として、トルコの首都スタンブールに赴き、英国人ディクソン夫人の下宿にて、現地のムハンマドやドイツ人のオットー、ギリシャ人のディミィトリスと共に暮らしている・・・気になって読んでいる。だから、日本から同胞たる木下氏が来れば懐かしいし、欧州人ハムディベー氏に知己を得ると、誇らしいような、どこかむずかゆいような心持ちがする。東洋と西洋、古代と現代が忙しく行き来するのを、ここではまるで当たり前のように受け止めながら日々を営んでいる。

そして、その日々が終わることをも、自然のこととして受け入れる。あるべきところに帰って忙しく年月が流れる感覚にも、容易に同調することができる。だからあまりにも突然なのだ。物語の最後、私たちは村田と同じに「まさか」と思い、ややして、呆然と悟る。あまりにも多くが過ぎ去っていったこと、その輝きを。

こんなにも鮮やかに私たちをはるか遠い地平まで連れて行ってしまうのだから、実はすごく緻密に周到に練ってあるんだろうけれども、まるで腕のよい絵描きのように、作為なく、ただ見たままを活写しているような筆者の筆使い。憧れる。

梨木香歩といえば一般的には『西の魔女が死んだ』なのだろうが、私は断然、こちらのほうが優れた作品なのではないかと思っています*1。これこそが、この人だからこそ書けるもの、他の人にはなかなか書けないものだと思う。『家守綺憚』とこれのどっちを推すかは好みの問題かな。より寓意的なものを好むか、あるいは、ドラマティックなものを好むか、という。

唐突ですがここで思い浮かんだ歌詞を書いておきます。小沢健二の『恋しくて』

幸せなときは不思議な力に守られてるとも気づかずに
けど もう一回と願うならば それは複雑なあやとりのようで

小説家もすばらしいんだけど、この短いフレーズで「ああ、わかるわかる」と思わせることができるから、音楽もやっぱりすばらしいんだと思いますね。もちろん、小沢くんの詞書きとしての能力が卓越しているからこそ。

*1:最近『西の魔女』を再読してない状態なので断言よりは弱いトーンで。ていうか『西の魔女』はBOOK OFFに里子に出してしまったのよね・・・