子育てをがんばってない

自分に関していえば、年賀状みたいな便りに「子育てがんばってます」と書いたり、人に「子育てがんばってるね〜」と言われたりするのには、少し違和感がある。

わが子が目の前にいれば、子育てはあたりまえに「する」ものであって、ことさら「がんばる」ものではない・・・とでもいえば聞こえはいいが、なんのことはない。あんまりがんばっていないんじゃないかと思うのだ。どうも私には、子育てに対する真剣度、というか、献身度、というか(言葉遊びをしているわけではない)が、足りないのではないかという気がする。愛情はむしろ嫌になるくらいにあるのだが・・・。

昔から自覚はしていたが、自分の子どもに対しても、あれこれ世話を焼いて喜ぶ性質じゃないらしい。子どものことになると財布がゆるむ、ということも我ながら驚くほど少ない。私がとにかく面白いと思うのは、子どもの観察(と記録)。子どもと遊ぶときは、極力、教えるような感じを持ち込まないようにしている。たとえば、今なら「猫はどれ?」とか「赤いの取って」とか求めない。今のサクが出来ないことを出来るようにしようとしない(逆に、できることはとことんリピートに付き合う)。ありのまま〜の発達が見たい。

子育てをしていて、そのときそのときでグターッとなることはある。ただ、あまり引きずりはしない。少なくとも、出産してからこれまでの1年2ヶ月に限っては、産む前に想像していたほど、子育ては大変じゃなかった。もちろん、よくできた夫を始め、周りの人々のおかげでもあるが、ひとつには、30過ぎて産んだからじゃないかと思う。

「あるていど自分の自由を犠牲にすること、思い通りにならないことは、種類こそ違え、仕事だろうと子育てだろうと、人生にはつきものだ。」ということを、理屈ではなく感覚としてすんなり理解できるくらいには、今の私は年をとっている。それに、「こんな時期はあっという間に過ぎる」ということも、感覚的にわかるのだ。年を経るごとに、1年1年の早さって身にしみますからね、ふっ・・・。

同じ苦しみが毎日毎日続いて、もう終わることはないんじゃないか・・・人が絶望するのはそういう気持ちからではなかろうか。でも、生まれた子どもと3ヶ月も接していれば、同じ日々なんてものすごく短いのが歴然とわかる。赤ちゃんはものすごいスピードで成長していくからだ。1年前のサクと、今のサクでは、世話における大変なポイントは全然違う。1年後も然りだろう。

だいたい、おっぱいだとか寝かしつけだとかでの苦労は、あとになって思い出せばかわいいもんなんじゃないか?とも思うのだ。子どもが大きくなって、友だち関係や恋愛や、受験、就職・・・見守るしかない状況や、いつか重くのしかかってくる教育費のこととかで悩んだりするほうが、よっぽどつらいんじゃないか。そんな、いらん想像までしてしまうのが、三十路を過ぎた人間のかわいくなさってもんである。

あと、2人め、3人めを産んでる友達も少なくない年ごろだからねえ。「あっちの大変さに比べりゃ、こっちはまだひよっこのようなもの・・・」と思えるってのもあるな。

何より、深く考えなくても、子どもはどんどん成長して、次々と新しいかわいさを見せる。あんなことができた、こんな仕草をした、と、記録が追いつかない勢いで変わっていく。こんなにも新しい発見にみちた日々は、ほかにないんじゃないかとすら思える。

かわいさの種類もまた、大変さのバリエーションと同様に、続々と上書き更新されるばかりで、もう戻らない。生まれたての無垢で頼りないサクにも、ハイハイのサクにももう会えない。よちよち歩きも今だけだ。そう考えると、子育てのつらさ、大変さに天秤を傾けてはいられない。単純にもったいないのだ。この、日々の喜びを満喫しないのは。

とはいえ、我が子が赤ちゃんという、この特別な時代に溺れたくない・・・とも思うのが、自分のややこしいというか、めんどくさいところである。

「小さい子どもがいると大変よねぇ」も、「小さい子どもがいると楽しいよねぇ」も、事実だ。事実だが、そのどちらも、子ども至上主義になる危険を孕んでいるような気がする。や、ある意味、現状の自分はつねに子ども至上主義なのだけれども。

当たり前だが、子どもとはかかわりのないところにも、人生の喜びや悲しみ、楽しみや苦しみは、いくらでも存在する。子どもは宝だが、同時に、世界を構成する1要素に過ぎない。子どもは社会全体で育てるべき・・・という“べき論”には基本的に賛成だが、子どもに対する好意や便宜を、さも当然のように受け止めたくはない。

(子をきっかけに知り合った友だちは別として)自分の友だちにとっては、子どもはあくまで私の付属物であって、興味がなくても当たり前だということ。子どもが苦手な人、嫌いな人もいること。そして、私は自分の運や力で勝ち取ったのではなく、たまたま、子どもを授かって、育てているということ。

そういうすべてに意識的でいたい。

卑屈になっているわけじゃない。今を楽しみたいし、自分や家族は大事だけど、同時に、自分が特別じゃないと思うこと、世界の多様性を思うことは、つまりは「自分自身も世界に受け容れられるべきものなんだ」という勝手な正当化につながっているんだと思う。それに、定説によれば、サクも5歳までに一生分の親孝行をしてしまう(笑)はず。かわいいかわいい幼子との蜜月に慣れきってしまうと、その後の虚脱感が激しそうで怖かったりするから、防御線を貼っている面もあるのかも(今から?!)

ま、こういうことを、わざわざ文字にして書いてしまう自分は、まだまだね、とも思う。

子育てはあんまりがんばってない。でも、人生はがんばっていたいと思う。いつでも。