それでも、生きてゆく。ということ。(兼、10話感想)

感動、って言葉がそぐわないようなドラマ。すばらしすぎるから「感動」じゃ追いつかない、って言いたいんじゃない。紳助の語彙的な「感動」の話をしてるんじゃないから。たとえば、今春の『JIN』も筆舌尽くしがたくすばらしかった(特に最終回)が、「感動した」といって違和感がない。

なんといったらいいんでしょうか。ほんと、見る者の言葉を奪うドラマだ。とにかく、第10話、胸が震えた。震えて震えて震えまくった。毎週、このドラマを見終わった後はしばし放心で、まあ今週も放心っちゃ放心なんだが、いつもとは違う感じがあった。

友だちが、「最終回かと思って見てた」旨、コメントしてくれたんだけど、や、あのシーンでで終わったら確かにかなり斬新だけどww、なんだったら最終回でもいいかな、って思えた。

いつかどこかで、「すばらしいドラマって最終回の1回前が最大に盛り上がるもんだ」って説を見て、なるほどなと覚えている。法則、発動してた。これを超える最終回だったら、マジで神。と言いながら、神の降臨を願っている私がいるのだが・・・! 


ふー、落ち着きましょう。

灯里(福田麻由子)と耕平(田中圭)は、より深い痛み、悲しみを体験してしまったわけだけど、それは、より、それぞれの母の心に寄り添うことにもつながるわけで、つまりそれは、大きなものを越えていくための一歩のようにも見えた。

草間(小野武彦)の決断、その瞬間を見据えるという“せめてもの”罰を甘んじて受ける駿輔(時任三郎)。形は違えど、自分の一生を、自分のすべてをかけている父親たち。

被害者の母=響子(大竹しのぶ)に促され、彼女を心底憎んでいたと告白する加害者の母=隆美(風吹ジュン)。その告白に、「あなたが苦しんできたことがわかって、ほっとした」と答える響子。

続く「被害者家族と加害者家族は同じ乗り物に乗っていて、一生降りることができない。だったら、行き先は一緒に決めなきゃ」というセリフは、オープニングテーマで、洋貴(瑛太)と双葉(満島ひかり)が同じボートに乗っている画にもつながるんだな。そのシナジーにぞくっとした。

このセリフだけをいきなり聞いたら「ハァ?」て感じるんだろうけど、響子がこのセリフにたどりつくまでのことは、10話かけて丹念に描かれてきてたから、ものすごい説得力があった。これは最大の救済かもしれないと思った。苦しんで苦しんで、当事者が自分でここへたどりついたってことに、絶句するしかない。

洋貴が文哉(風間俊介)に言う、「おまえと一緒に朝日を見に行きたい。それだけでいい」っていう言葉も、響子の思いと同じなんだと思う。洋貴は、双葉と一緒にいることによって、被害者家族と加害者家族が同じ乗り物に乗ることを、いつしか受け入れていて、そこに文哉も乗せよう、乗ってほしいと本能的に思った。

ああ、やっぱりって感じなんだけど、それは文哉には全然通じないわけなんだけどね・・・。

飛び込み台(だったっけ)に置かれた日向夏を見つけてプールに走り出す〜文哉救出〜食堂〜瑛太長ゼリフ〜「いや、今まで言ったこと忘れていい」〜「お兄ちゃん、おなかすいてるんだよ」〜狂ったように笑いながら食べる瑛太〜警察署の前で満島ひかりが文哉に飛び蹴りくらわしてボコボコにする・・・・・・って一連のシーンは、すごかったですね。すごいシーンが目白押しのこのドラマでも、この15分間?くらいは、なんというか、日本のドラマ史に残るような連なりだったと思う。

瑛太のシーンは、これまた、ひとつも外せなくって、心臓マッサージ・人工呼吸や、食堂でのすごさは言うに及ばず、電話ボックスの中にうずくまる満島ひかりを見下ろす顔も、よくこんな顔できるなって思った。

そして朝日のくだりはやっぱり脚本がすばらしい。誰にでもわかる感覚だと思う。ふと、見るでもなく見た朝日のすごさに息をのむ瞬間。幸福感とか不幸とか考える余地もなく、ただ、生きているという感覚が圧倒的にせまってくる瞬間。

そういう朝日を見るまでには、洋貴にもさんざんいろいろあったのだ。彼が言ってたとおり、ナメクジみたいだった15年間や、知らなければよかったと思ってしまうようなことや。それでも、彼はここまできて、朝日に息をのんでる。

文哉にはそういう「人間らしい」感覚を味わうことはできない。空腹を感じる動物ではありえても人間にはなれない。朝日が輝く空を見上げることはできなくて、ただひたすら夜の底を覗きこんでいる。湖の底を壊して、そのまた果てまで落ちてゆこうとすることしかできないのだ。

たぶん文哉を救うことは誰にもできない。見てる側としても、救ってあげたくもない。「命を奪ったらもう償えないんだよ!」と双葉が言ってたけど、償い以前に、誰の痛みも理解することができないんだもん。憎んでも憎みきれない。

でも、ここへきて、なぜか、文哉はとてもかわいそうにも思える。医療少年院で“治療”を受けても、酒井若菜のような女性と暮らして“心をもらって”も、父親や妹、響子や洋貴にどんな思いをぶつけられても、響かない。人間になれない文哉は、とてもかわいそうに思える。

というのは、別の言い方をすると、洋貴や、双葉や、響子、駿輔などなどのみんなが、どんなに苦しみながらでも“人間として生きている”ことを、心の奥深くで肯定して、そっちがわに立ってるってことなんだと思う。

それは、たぶん、ものすごく拡大解釈をしていいことで、「この時期に、どうしてこんなドラマを作って、放送したか?」ってことにもつながるんじゃないかと思う。

震災があって、たくさんの人が、大事なものを失い、苦境の中で生きている。心の底から笑える日なんてくるのかな、って思いながら生きてる人がたくさんいる。もちろん、震災とは別のところでも、苦しんでいる人はたくさんいるし、今はそうじゃないとしても、いつ誰がどんな苦しみの中におかれても不思議じゃないのがこの世だ。

たやすく救うことなんてできない苦しみはたくさんある。がんばれ、なんて言えない苦しみはたくさんある。生きるってすばらしい、だなんて簡単に言えない。生きることはどうしようもなく苦しくて残酷だ、という現実も、厳然としてある。

周りにできるのは、それでも生きてゆく人たちを、それでも生きてゆくことを、全力で肯定することだけだ。あなたにも、生きているあなた自身を肯定してほしいと願うことだけ。

このドラマって、つまりはそういうことなんじゃないかなと思う。いま、10話を見終わって、感動っていうのとは違うな、って感じの、この打たれたような思いをがんばって言葉にしてみた。誰にも頼まれてないけど・・・笑

ってわけで、最終回、これ以上、何があるっていうんですか??? どきどきどきどき!