母になってのごめんなすって

学生の頃やっていたレストランのアルバイト。子連れのママたちが帰ったあとを片づけるのは憂鬱だった。食べ残しや食べかすはもちろんのこと、大量に使われたおしぼりや紙ナプキン(なぜかビリビリに裂かれていたりする)、店の商品ではないもの(お菓子など)のゴミなどなどが、テーブルの上にも下にもごっそりと残されている。「どうやったらこんなにも?」というくらいにベタベタに汚れたテーブルやいすを一枚のダスターで拭きあげるのは不可能だった。

もうちょっときれいに食べさせることはできないのかね・・・

と思っていた12年前の私に解答。ムリ! ムリなんです! 今、まさにそれに近い状態で店をあとにするわたくしが、ここにいるではありませんか。もちろん、ゴミをまとめるとか、拭けるとこは拭くとか、努力はするけど原状回復には程遠く。

子どもは散らかし屋。そう、散らかすことにかけて彼らはいっさい手を抜かない。液体固体おかまいなしに手づかみで食べようとするし、手触りが気に入れば目的は食べるより「遊ぶ」に変わるし、退屈したら、店の備品だろうとなんだろうといたずらーっ。

パッと食べさせてパッと帰るべきなんだろうけど、もっといえば、小さい子連れって外食に適さない家族形態なんだろうけど、そこはやっぱり、母に息抜きの時間をいただきたいのです。外に出たいんです。おしゃべりもしたいんです。

だって基本は、家で毎食このバトル。作って、食卓を準備して、遊んだりぐずったりする子をなだめすかしながら食べさせて、テーブル周囲を片づけて、食器を洗っていうサイクルを1日3回、毎日、土日祝日関係なしだよ! ・・・や、まあ、たいしたもの作ってませんが。私の食べるものは夫が作ってくれたりもする我が家ですが。それでも、ごはんごはんで1日が過ぎていくんだよ。(もちろん、ごはんとごはんの間にも、子どもはせっせといたずらをしてくれます。)

神も悪魔も細部に宿るものだから、我が身になってみないと見えないことはいろいろある、と思う。子育てに限らない話だろうけど。

それから、逆も。これまた子育てに限らない話だろうけど。その場にいると見失いがちになってしまうこともある。

どんなときでも、自分は自分、なんだよね。

どこにどのくらいの家を買うとか建てるとか、ふたりめをいつごろつくるとかつくらないとか、幼稚園か保育園かとか、ならいごととか。実際のところ、人の話はほとんど参考にならない。家族の状況も価値観も懐事情も千差万別なんだもん。子どもができればみんな関心をもつことだから話題になりやすいし、話を聞いているといちいち「へーっ」と驚いたり感心したりしてしまうけれど、あんまり耳年増みたいになっていくのもどうかな、と思う。人の話を聞いて「このままでいいのかしらん」と焦ったり、眉をしかめて「自分はどうしよう」なんて考えるのもイヤ。

実は人生には選べないことが多いのも、もうわかっている。子どもは授かりものだし、お金は限られているし、家族が誰もけがも病気もしないなんていうのはほとんど奇跡なのだ。だからといって、愚痴ったりうらやんだりばかりしてもしょうがないもんね。

みんな大変だし、でもみんながんばっている。人の話に対するスタンスは、これに尽きる。

独身時代、飲み会で会社の愚痴大会みたいになっているときも、こういうのってほんとは生産性ないよなーと思いながらしゃべってる(そして酔っぱらっていく)自分がいたよな。まあ、生産性がそんなに大事か!とも思うけども。プラスのオーラがまったく出てないようなおしゃべりばかりするおばちゃんにはなりたくないんだから。

やっぱり、たまに、自分を客観視しないとな、と思う。そして、こうありたい自分、なりたい自分と、いかに乖離しているか正視! 自分は自分でつくるのだ。