『犬のしっぽを撫でながら』 小川洋子

犬のしっぽを撫でながら (集英社文庫)

犬のしっぽを撫でながら (集英社文庫)

小川洋子の小説は2冊しか読んだことがない。好きか嫌いかと問われたら好きに違いないんだけど、別の作品もどんどん読みたいという気には、なぜかなれずにここまできた。

これは出産前に買いだめた本のうちの1冊で、産後2ヵ月半ほど経ってから読んだ。多彩な題材を扱いながら、小説と同じく、静謐なトーンをたたえるエッセイ集だ。阪神タイガースについて、こんなに静かな文章を書く熱狂的ファンがほかにいるだろうか? 冷静さからくる静けさではない。熱烈な思いで書いてあるのに、文章から受ける印象がどこまでも静かなのだ。

こんな静かな文章ですべてが綴られているのに平らかな気持ちで読めるわけではない。というのが、この人の作品の“味”だ。血沸き肉踊る活劇などではないけれど、ある意味、その辺の冒険小説やミステリーよりも、よっぽど心がざわめき、わかりやすいヒューマニズムをうたってはいなくても、心が揺さぶられる。

私にとって小川洋子の本は、「読む前に、なにかしらの覚悟を有する」もので、それがなぜなのか、不思議だった。エッセイはそんなことないだろう、と軽く読み始めたけれど、やはり読み心地は小説と似ていた。読み終えてからもこの不思議な気持ち浸らずにはいられなくて、そのうち、この本の中にあるフレーズをふっと思い出した。

“死に対して物語が果たせる役割”というのだ。そのフレーズの周辺の文章を中心にこのエッセイ全体、そしてこれまでに読んだ2冊の小説について考えると、なるほど、という気がした。必ずどこかに、喪失の気配がある気がする。

人生は別れの繰り返しだ。あらかじめわかっている卒業、ある日突然来る別れ。生別にしろ死別にしろ、自分で決めたものから、運命のいたずらとしか思えないものまで。知らず知らず一歩ずつ歩んでいる道筋は、いつか、なにかとの別れにつながっている。小川洋子の作品には、失われていくもの、既に失われてしまったものの香りが、あるときはかすかに、あるときは濃厚に、つねに漂っている。(2冊+エッセイしか読まずに、わかったようなことを書いてるが・・・)

しかも、それを、ことさらに、どういうものだと決めつけて提示しない。悲しいのか、さびしいのか、おそろしいのか、あるいはやさしい、懐かしいものか・・・。受け止め方は、すべて読み手にゆだねられていて、読む人によって、千差万別でありうる。そんな書き方がされている。

私にとって、別れや喪失は少なくとも日常のできごとではないし、簡単に割り切れはしない。余計な装飾や作為の少しも感じられない文章で、小川洋子は、静かに、どこか奥深いところからつかみとってきたものを書き続ける。私は彼女の作品を読むことによって、ふだんは目に映らないものや、見ないようにしているものを、静かに突きつけられる。だから、心が揺れる、ざわめく。でも、私の人生自体に別れや喪失が忍び寄ったり、向き合わざるをえないときもある。そんなときに、彼女の作品は、そっと寄り添ってくれる気がする。

この先、彼女のほかの作品を読む機会はきっと来ると思う。