母になるって多くを失うことだから

子どもを産んで2ヶ月。母親としてはチャンチャラひよっこでしかないのだが、逆に“こっち側に来たばっかり”のころに考えたことを書き残しておきたいな、と思って、書く。

子どもを産むことで、全部を失う。

築いてきたものを、子どものために、失う。

そういう感覚って、わかんないだろうなぁ、母親になってみないと。別に失うものは、仕事やキャリア、収入、働いているというプライド、地位ってだけではない。趣味に費やす時間、遊ぶ時間、どこにでも行ける自由、睡眠時間、美貌、スタイル、若さ……それぞれの価値観の違いはあるから、どれがいちばんとは言わないし、まったく失った気もしない人もいる。でも、自分自身は、結婚した時よりも喪失感は大きかった。
【北沢かえるの働けば自由になる日記、以下引用同】

“書く”と宣言しながら、いきなり人様のブログを引用してみました、えへ。このエントリ(この子のためなら、なんでもするな - 北沢かえるの働けば自由になる日記)、この部分以外にも、子どもを産んだ人なら頷くところが多いんじゃないかと思う。

“喪失感”、まさにそれだった。出産後のわけのわからない不安の正体のひとつ。子どもを産めばある種の自由さを失うというのはわかりきったこと、今さら動揺してどうする?!という話なのだが、頭でわかっているのと、『体で思い知った』のとでは、重みがまったく違うのだった。出産は本当に体を酷使し、消耗させるものだ。そしてその結果、ああやって気持ちがぐらぐらするなんて、人間は動物なんだなとつくづく思う。

子どもはかわいいし、育児は楽しい。それは真実。でも、それだけでこの喪失感を埋められるのか。埋められない人は増えていると思うなぁ。

制御できないような暴力的な波は産後2,3週間をピークにおさまったけれども、今も時々に“できなくなったこと”について悲しく思うことはある。そういう感情はなかなか消えるもんじゃないと思う。こうも暑いと、夕方になったら「生ビール飲みてー」とか思うわけじゃないですか。そこで、キリンFREEの完成度に舌を巻くことはできても、やっぱり「カーーーッ旨い!」と喉を鳴らすことはできないわけじゃないですか。さて自由はどっちだ?と。

まあ自分の場合、まったく予期せず授かったわけでもないし、会社を辞めたのは自分の意志だし、すごい戦力の夫がいるし、インドアな趣味にも事欠かないので、納得ずくで、なんとなく楽しくやっていける気はしている。それでも、孤独感というのは出てくるんじゃないかなあと予想。つまり今はそれほどないんだけど、たとえば充実した仕事をしている人や、かろやかにあちこち飛び回ってる人を見て、うらやむ気持ちがないではない。そういう人たちが社会とつながって見え、さて翻って、家の中にいる自分は・・・となるのではないかと。会社員時代、日曜日の夜に大河が終わったあと、あんなに憂鬱だったくせにね。

で、そういう気持ちになるのは織り込み済み(笑)なので、対策もそれなりに練っているつもりなんだけど。そんな自分に言い聞かせる言葉とか(笑)。ま、一言でいうと「隣の芝生は青い」ってやつね。

少し話は逸れるが、いわゆる“ママ友”がたくさんできれば孤独感はなくなるのか?というと、そうでもない気がする。自分の場合だけかもしれないが。いや、“ママ友”って、そう簡単にできないでしょ、という話なのかも。つまり、誰でもいいわけじゃない。母親にとって育児の話題を共有できる人は不可欠だけれど、それだけができればいいわけじゃない、というか。

子ども中心に暮らしていても、大人同士の他愛ない会話や、たまにはちょっと踏み込んだ話をじっくりとかいうのは必要だし、そういう相手は選んでしまうものだ。ママになってから作ったママ友というのは職場のように強制的に毎日会わざるを得ないわけじゃない分、子どもの話以外で打ち解けるまでには時間がかかりそう。何も子どもをもつ前と全く別人格になるわけではないから、やっぱりもともとの友だちと付き合うのがいちばん自然な気がする。

しかし友だちが独身だったりする場合、距離ができてしまったりするんだよね。生活時間、行動範囲やパターンなど重ならない部分が増えることによって、約束が取り付けづらいだけでなく、なんとなく「お母さんって忙しそう」「もう、興味のあることは違いすぎるんじゃないか」「違うテリトリーから声をかけるのは迷惑なんじゃないか」なんて気になったり。独身時代は既婚者や子持ちの友だちに対して、ぼんやりとそう思っていた。

今、独身だったり子どものいない友だちに声をかけづらいのはなおさらのこと。なんたってこちらはコブつきで、身動きがとりにくい。酒も飲めない。声をかけづらいだけで、会いたい気持ちは全然ある。これを読んでる独身者の方などは、自分の子持ちの友だちに遠慮しないで!と言いたい。あと、子持ちの友だちには子どもの話ばっかり振らなきゃ、とか思わないでくだされ。この辺の話は、益田ミリの『結婚しなくていいですか』なんかに詳しく出てるのかな。

閑話休題

自分に全面に依存してくる弱さを愛おしいと思うと同時に、だからこそ自分の思い通りにできることに身震いした。この子は自分の喪失と引き換えってのがどこかに付きまとうから、代え難いものでありながら、好きにしていいと思ってしまう。「我が子」と思うことには、どこか自分の一部として、子どもを使役する怖さがあると。自戒を込めて思うね。
親は、神のように子どもの前に立ってしまうものだと。

神のように子どもの前に立ってしまう、とは凄いフレーズだけど、わかるところもある。1対1の長い時間、子どもは完全に私に委ねられている。どれだけ寝かせるのか、おふろは何時に入れるか、泣いたらすぐに抱っこしてあげるか待たせるか。私しだいだ。そしてこれから大きくなるにつれ、そういう積み重ねのすべてがこの子の成長、性格やなんかにも影響してくる。ずぼらな親に育てられる子はかわいそうだよな、と自嘲したりもするけど、それぐらいの話で済むのかどうか。

こんなに小さい子を叩きたいなんてもちろん思わない。でも、虐待も過剰な愛情も、子どもを“自分の好きにしてしまう”という点では同じだ。じゃあ過剰のラインってどこ? このあいだ、「数時間でも人に預けるなんてできそうにない」と書いたけど(2010-08-23 - moonshine)、たとえ自分のショッピングのためであるにせよ、デパートの託児ルームに預ける親より、(今のところ預ける予定のない)私のほうが偉いわけじゃない。親として正しいわけでもない。もちろん正しくないわけでもない。

子育てなんて、しょせん何もかもが自己満足じゃないか、という気もするし、これぐらいはしてやらねば、と思ったりもする。子どもと一心同体みたいな気持ちになることも、やっぱりある。そして、こんなふうに心が揺れるのも仕方ないよな、というか、あまり深く考えなくても自分が普通の人間なんだから最低でも普通には育つんじゃないか、とか。で、結局、ずぼらな親に育てられりゃ、子もずぼらになるんだろうな・・・と、思考はループする。

うん、むしろ、子育てとはこうあるべきなのだ、という確たるポリシーみたいなものを持つほうが怖かったりする。ただ、母の喪失感、孤独感を、どんな形であれ、子どもに転嫁しないこと。親は神でなく、子は赤ちゃんであっても人間だということ。その辺は忘れずにいたい。喪失ではなく、かつて持っていた感覚を忘れるくらいの地平まで行っても。