小説を読んでいない
そういえばあまり小説を読んでいない。と気づいたのは、そう最近のことではない。
「このごろ何読んでる?」
本好きの同僚に帰りの更衣室で聞かれて言葉に窮したのは、何ヶ月まえのことだったか。
「うー、うーん。すんごい渋いの読んでた。『平家物語』とか」
この場合に適切な答えは・・・としばし考えてひねり出したのがこれだった。宮尾登美子の平家物語全4巻はしばらく前に読んだもので、豪華絢爛たる文章によって紡がれた紛れもない傑作だったが、これでさえ、若い女子(というほど若くもないが)が挙げるには、何となくしみったれた印象である。同僚は「へぇー確かに渋い」と笑った。
彼女は海堂尊にハマっているらしい。チーム・バチスタだよ、ジェネラル・ルージュだよ。なんてトレンディ。何恥じることなく言える本を読んでるっていいな・・・と、なぜか微妙な劣等感を覚える私だった。そんな必要はないのだが。
そもそも、一言で“本好き”といっても、いろんな人種がいるのだ。いわゆる“鉄男”や“鉄子”だって、その専門分野(?)は車体、時刻表、路線など、人によってさまざまだというではないか。また、飛行機マニアである作家の森博嗣も、「ふつうの人にはどれも同じに見えるのだろうが、好きだからこそ、その分野の中での『好き嫌い』がはっきりあるのだ」というようなことを書いていたし。
でも、私は本来、“物語出身”の読書好きなのだ。
「赤毛のアン」やら「若草物語」、「ハックルベリー・フィンの冒険」のような少年少女向け名作文学。あるいは「○○(←女の子の名前が入る)10才」「おちゃめなふたご」や「ズッコケ三人組」といった児童向けシリーズもの。赤川次郎や宗田理といったお約束の道ももちろん通った。
コバルト文庫を軸に少女小説もたくさん読んだ。氷室冴子、藤本ひとみ、前田珠子、若木未生、倉橋耀子、日向章一郎、山浦弘靖、竹河聖、高瀬美恵、須賀しのぶ。もちろんマンガの物語世界も堪能しないわけがない。赤石路代、篠原千絵、あさぎり夕、成田美名子、樹なつみ、那須雪絵、山岸涼子、大和和紀、佐々木倫子。雑誌で読んでたものや、もう売ってしまって本棚にはないものもたくさんあるけど、名前挙げてると懐かしくて、あー、ぐっとくる。少年マンガは主に、友だちに借りて読んでた。浦沢直樹、井上雄彦、河合克敏、鳥山明、北条司。
高校生、大学生になっても物語作家への傾倒はまだまだ続くよ。吉本ばなな(当時)、山田詠美、鷺沢めぐむ。椎名誠。宮本輝。北村薫、高村薫。酒見賢一。司馬遼太郎、藤沢周平、宮城谷昌光、宮尾登美子。純文学も「読むなら今だろう」という自覚があったのでけっこう読んだ。好きだったのは、芥川龍之介。坂口安吾。立原正秋。吉行淳之介。谷崎潤一郎。漱石もいくつか読んだ。太宰はメロス以外読まなかった。小学生のときにチラ読みした「人間失格」が怖すぎてトラウマになっていたため(笑)。
いま、書いていて、パッと思い出せなくても、このころはたいてい、何を読んでも楽しめたんだよね。渇いた喉にアクエリアスを流し込むかのように、どんどん読めた。
社会人になっても、しばらくは続いた。吉田修一、保坂和志、池澤夏樹。三浦しをん。村上春樹、村上龍。森博嗣。辻原登。山田風太郎、池波正太郎、黒岩重吾。宇江佐真理、北原亞以子。こうやってみると、10代の頃から歴史小説・時代小説の割合が高かったのは確か。既に私の中では、大河ドラマと歴史小説との切磋琢磨(?)が始まっていたのである。
それが、いつからか事情が変わってくる。読むには読むのだが、「刊行されてるもの全部読み尽くすまで!」あるいは「新刊が出たらすぐに購入!」という貪欲さで食いつけない作家が増えてきた。浅田次郎、宮部みゆき、川上弘美、奥田英朗、森絵都などはその類。面白いとは思うのだが、どうにも積極的に食指が動かない。1冊読んだら「とりあえずお腹いっぱいス」てな状態になる。
もっと悲しいことには、読んでも、血湧き肉踊る、あるいは心の琴線に触れて妙なる音色を奏でるという感覚の得られない“物語”が増えてきた。『夜のピクニック』以外の恩田陸、あさのあつこ、西加奈子、森見登美彦、藤谷治、嶽本野ばら、長島有・・・。いずれも当代の人気作家なのに、「あー」「うー」と苦しい声を漏らしながらしか読めなかったりする、もっというと、最後まで読む気力が続かなかったりさえするのである。これは、私の得意ジャンル、歴史・時代小説でも同じこと。乙川優一郎、宮本昌孝、諸田玲子など、「どうも違うわい。」と思えてならない。
こうなると、人間、弱気になるもので、海堂尊とか伊坂幸太郎とか東野圭吾とか有川浩とか桜庭一樹とか万城目学などなど、気になる人はいろいろいれども、今となってはなかなか手の出ない高嶺の花たちになっている。
こうして、長らくの蜜月を謳歌していた私と小説とのあいだに隙間風が吹き始めたのだった。しかし、なんでこんなことになってしまったのか。「乱読こそ読書の王道」という座右の銘を掲げていた(嘘)私としては、内心、忸怩たる思いである。
ひとつには、私が年をとってしまった(!)ということが考えられる。尾崎豊やブルーハーツ、GReeeeN(eはいくつだ?)は10代のころに聞いてこそ感動するのと同じで、小説にも「読みどき」というものがあるということ。おめおめと三十路を越してしまった私だから、知らず知らずのうちに「読みどき」を逃してしまった本もたくさんあるだろうし、「Don't trust over 30!」という鉢巻を巻いたような若い作家によって今まさに執筆されている小説は、もう私などお呼びでないだろう。
また、年をとったことに関連するが、社会に出るとどうしても自由な時間が失われがちだ。細切れの読書では、物語の世界にスルリと入り込むことが難しい。どんなに仕事が多忙になっても、「息抜きに」本を読みたくなるのは活字中毒者共通の感覚だろうが、私の場合、細切れ読書には、物語でなくエッセイや雑誌などを手に取る機会が増えた。
それでもなお、読書という聖域(?)においてまで、寄る年波に勝つことは不可能なのだろうか?とも私は考えるのである。確かに、感性という言葉の前に「自由な」とか「みずみずしい」とかいう形容詞が冠せられるとき、往々にして「若さ」とセットになっていることは否定できない。でも、私は何も木石になったわけじゃない。
三十路前後で出会って(って一方的な出会いだが)好きになった書き手もいるのだ。たとえば、梨木香歩。松井今朝子。米原万里。白洲正子。茨木のり子。半藤一利。宮本常一。網野善彦など。これらの人が書くものを読んでいると、胸が震えるような感動や、足元がぐらぐらするような衝撃や、いい運動をしたあとのように爽快な疲労感を覚える。その心の揺れの大きさは、10代のころと何ら変わらないよ! 私は声を大にしてそう言いたい。
では、現在の私の胸を打つものとは、いったなんなのか? そう考えたとき、ひとつの可能性が浮かぶ。先ほどの【三十路前後で出会った敬愛すべき書き手】たちをもう一度並べてみる。梨木香歩(植物)。松井今朝子(歌舞伎、演劇)。米原万里(ロシア)。白洲正子(日本文化)。茨木のり子(詩)。半藤一利(歴史とくに近現代史)。宮本常一(民俗学)。網野善彦(中世史)。カッコの中は、それぞれの書き手のライフワークともいうべき分野。どんな著作にも、その片鱗は必ず見られる。
これらの書き手の著作以外で、近年、心に残っている本のタイトルを挙げてみる。
圧倒的に、何かしらの分野に特化して掘り下げた本が多い。そしてまあ、圧倒的に歴史関係の本が多いんだが、もともと私は「歴女」なんて言葉がちゃらちゃらもてはやされるよりもずーーーっと前からの真性歴史オタクなのだ。文句あるか。
蓋し・・・。(これは、学生時代、国語の教科書に出てきた中で唯一といっていいほど、読み方も意味も知らなかった語句なので、逆に印象深い。でもいまだに使い方がよくわかんないんですけどあってます?)
読書の楽しみというのはいろいろあるし、人それぞれだろう。私は、子どもの頃から「本を読むのが好き」と言うと「偉いのねえ」みたいな反応をされるのが非常に居心地悪かった。私にとって、読書はお勉強でも高尚な趣味でもなく、意識的には、テレビを見るのとあまり変わらないものだったのだ。
テレビを見るのに、「さ、この番組から何かを得るぞ!っと」と、いちいち気負ったりする人はそうそういないだろう。笑いだったり涙だったり下世話な好奇心をみたしたりする心地よい刺激。あるいは、だらーっとしたリラックス。敢えて探すなら、そういうもののために私たちはテレビを見る。
ただ、いろんな放送コードがあったり、ゴールデンタイムにはあるていど公序良俗に配慮した番組しかやらないテレビと違って、本というのはものすごく自由だった。寄宿舎生活だろうが超能力だろうが黒魔術だろうが遠未来だろうが近親相姦だろうが、ページを開けばたちどころにその世界に入っていけた。秘めた恋とか、愛してるのに別れを選択とか、かわいさあまって憎さ百倍とか、普通に生活していたらガキんちょには到底想像もつかないような複雑な心理や人間模様を疑似体験することもできた。
たぶん私は、子どものころから、本を通して「知らない世界を知る」ということをもっとも楽しんでいたんだと思う。楽しんでいたっていうより、“興奮してた”ぐらい言うほうが正確かも。子どもの頃は知っていることが圧倒的に少ないから、どんな物語の中にも未知の世界を見ることができた。物語仕立ては未知の世界をより自分に引き寄せ、想像力・・・というか妄想力を搭載した人間に私を育てた。
そんな私は、今、知りたいことがはっきりしているので、やたらと「ちくま文庫」や「岩波文庫」なんかを魅力的に感じるんだろう。物語よりも興奮できるもの、でもやっぱり「本」という形態でしかなかなか知りえないもの。
そんなもんを仮に究めたとしてどうするんだ?といわれても困る。別に学者とか識者になりたいわけじゃない。ただ読んでいる時間のエキサイティング、そして、読み終わったあと、世界が少しそれまでと変わって見えるような気がするのが好きなだけ。何かに精通している人、長けた人が見る世界は、なんだかとても彩りや深みがあるような気がする。私も、そういうふうに世界を見たい。
最近はあまり小説を読んでいない。でも本は相変わらずよく読んでいるし、読むことはとっても楽しい。