『宮本常一が見た日本』 佐野眞一

表紙の宮本さんの写真がステキ。

宮本常一が見た日本 (ちくま文庫)

宮本常一が見た日本 (ちくま文庫)

日本人が忘れてしまった「日本」をその著作に刻み続けた民俗学者宮本常一。戦前から戦中、高度経済成長期からバブル前夜まで日本の津々浦々を歩き、人々の生活を記録。

本書の裏表紙では宮本常一という人をこう紹介している。その宮本を「旅する巨人」と称し、同タイトルのノンフィクション作品で大宅壮一賞を受賞した佐野眞一が再び彼の遍歴を辿ったのが、本書だ。

私が宮本常一を知っているのは代表作『忘れられた日本人』を通してのみであり、しかしそれは彼の旅の足跡であるとともに各地の「忘れられた日本人」たる名もなき人々の暮らしを描写したものであるから、巻末に付された網野善彦による短い解説からの情報以外、彼自身についての知識はほとんど持っていなかった。

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

それでも、この、ただ一冊の本は、著者の来歴や人生を知りたいと強く思わせられるのにじゅうぶんなほど、強烈だ。そして、私のような人間が多いからこそ、宮本を追った本書も、出版の運びになるのだろう。もちろん、宮本の旅路を自らも相当にたどり、350ページ強ものボリュームで書き綴ったこの本に懸ける著者の意気込みも半端なものではないのだけれど。

人物を追ったノンフィクションの常として、宮本の生い立ちから語られ始めるのだが、この部分が非常に魅力的だった。というか、彼に多大な影響を与えた祖父、そして父がすこぶる魅力的なのだ。

宮本は大正12年、15歳で故郷の山口県周防大島を離れ、大阪に働きに出ることになる。そのときに父・善十郎が「これだけは忘れぬようにせよ」といってとらせた10か条のメモがすごい。

1.汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。駅へ着いたら人の乗り降りに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置き場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

2.村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ上って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行ってみることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。

3.金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

4.時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

5.金というものはもうけるのはそんなに難しくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

宮本の父・善十郎は、高等教育を受けておらず、少年だった宮本は無学の父を恥じ、憎むところもあった。しかしこれだけの教訓を息子に垂れることのできる父だった。これは、父自身が旅で得たものであろうと思われる。宮本が育った島では、仕事を求め、また世間というものを知るために、島の外へ旅に出るのを常とする気風があったという。宮本は、まさに、フィールドワークの申し子として生まれてきたのかもしれない。

10か条の後半は、前半の“旅暮らしの知恵”とはおもむきを変えて続く。

6.私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし体は大切にせよ。30歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし30過ぎたら親のあることを思い出せ。
7.ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい。親はいつでも待っている。
8.これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
9.自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって、親は責めはしない。
10.人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

ここまで読んで、思わず泣けてしまった私だった。15歳の息子にこれだけのことを言って聞かせる父、それを15歳の胸に刻んで旅立ち、生涯忘れなかった息子。この部分だけでも、本書を買った“甲斐”のようなものはある気がする。

宮本はとにかく「旅の人」であり「実践者」で、超人的なペースで日本の津々浦々を旅してまわった。現地の人から聞きたい話を聞きだせば、そのお返しとして人々の役に立つ話をすることを旨とし、多くの人に慕われた。農業の発展や芸能の復興により、高度経済成長を遂げていく日本の中で「忘れられた」地域の人々の暮らしが豊かになるよう、生涯にわたって奔走した。

ゆえに、彼には、膨大な旅のメモや写真はあっても、その整理をすることができなかった。島生まれの彼は、旅の記録をもとに最大のライフワークとして「海からみた日本」という執筆を始めようとしたが、そのとき既に癌に冒されていた。

宮本が撮った10万枚の写真を2日がかりで見た著者はこう書く。

ここには厖大な写真はあっても、それを撮ったカメラはない。宮本が使った小型カメラは、おそらく軽く10台は超えるだろう。ここに宮本のカメラがないのは、宮本がそれらをすべて使いつぶしてしまったからである。宮本が使ったリュックやズック靴もここにはない。宮本はカメラ同様、それらも道具として使い切ってしまった。宮本は映像を含めた記録を残すことに全情熱を傾けたが、その手助けとなる道具類にフェティシズムを感じることとは生涯無縁だった。

調査結果を世に送り出す機会の少なかった宮本なので、民俗学者としての評価は必ずしも高くない。その姿は、彼自身もまた「忘れられた日本人」であることを印象づけ、私たちを感慨深くさせる。ただ、彼の著書「忘れられた日本人」は圧倒的な魅力で確実にロングセラーを続けている。私がもっているのは、文庫化されてから実に54回めに刷られたものなのだ。