妊娠生活のおわりに

初産は予定日よりも遅れがちとはよく言われるけれど、37週を過ぎると正期産といっていつ生まれてもおかしくない時期らしく、とすると私もいつ妊婦でなくなるかわからないので(いま36週5日め)、いま思うところを書き留めておく。

ここまで楽しい妊娠生活だった。

それは、もっと時が経ってから振り返れば「幸せな」と言い換えてもいいのかもしれないけれど、今現在の実感としてはちょっと違う。妊婦さんというのは、丸いお腹という見た目からして何とも幸せそうに見えるし、その中身は脂肪じゃなくて新しい命なんだから、実際、希望を育てているようなものではあるが、妊婦には妊婦なりの事情や苦労も、それぞれにあったりする。

私の場合、悩ませられる外的な要因のなかったことは本当に幸運だった。妊娠は順調な経過をたどってきた。夫も親きょうだいも元気でいてくれて、子どもの生まれることを一緒に喜び応援してくれた。つわりで寝込んだり仕事を休んだりすることがなかった。退職にあたっても何のトラブルもなかった。これら、自分ではどうしようもないことで苦しむ妊婦さんも少なくないだろうと思う。私は今回、恵まれていた。

自分の内面も、概して穏やかなものだった。

子どもが授かればいいなと自然に思ってはいたものの、未知の世界に足を踏み入れ、翻弄されることは不安でもあった。仕事の質量、収入と消費、人との交わり方や時間の使い方など、なんにつけても自分をいっぱしの社会人のように思えていたし、そういうところまで含めて夫とほぼ完全に対等なパートナーでいられることにも満足してきた。妊娠・出産は、それらを大きく覆されるものではないのか? 「母親」という世界にどこかしらの閉鎖的イメージを抱いている部分も、正直あった。

だから、妊娠がわかったときは、いろんな意味でストレスフル(ストレスって“喜”や“楽”でも感じるんでしょ?)な生活になることも覚悟していたのだが、気持ちの浮き沈みは驚くほどなかったのだった。や、もちろん、ないわけではないけれども、妊娠していない頃とまったく変わらない程度の振れ幅だった。

“振れ幅”、つまり、プラス方向にもマイナス方向にも、極端に振りきれることがなかったということだ。何か固有の出来事に対してや、1日単位で見れば落ち込むときがあっても、ネガティブな気分の続くことはなく。逆に、「妊娠最高!母親万歳!」みたいなハイテンション、多幸感にみたされることもほとんどなく。

生活は確かに変わった。ストレス解消におおいに役立っていたランニングができなくなった。仕事量を徐々にセーブし、夜の社交(という名の単なる飲み会ですよええ)も減らした。周りも気をつかってくれるのだろう、お誘い自体がずいぶん減るのだった。となると家にいる時間が増える。家にいたって、もう酒は飲めない。当然タバコもやめた。腹まわりに肉がついてきて、服は次々にサイズアウトしていく。

それでも意外に動じることはなく、増えた時間で何をしていたかというと、読書。図書館。散歩。プール。野球観戦、ドラマ鑑賞。書きもの。通院。外食(結局・・・)。走る→歩く、陸上→水中と、運動する速度や場所が変わったくらいで、やっていることはたいして変わらない。まとまった時間が(しかも、しらふで)できるというのは新鮮で、それでやりたいことといったら、結局はもともと好きなことなのだった。およそ胎教に関係なかったり、むしろ良くなさそうだったりするものも平気で読んだし、毎日1時間くらいかけてだらだらと愚にもつかないことをブログに書き綴るのも飽きないものだ。

「幸せな」というよりも「楽しい」妊婦生活だったというのはそういう意味で、あくまで、これまでと地続きの日々だったということだ。私は妊娠する前も特に不幸ではなかったし、かといって、生きていればそれなりに雑事は尽きず面白くないこともあり、毎日まいにち「私って幸せだわ〜」としみじみするような余裕はない。それでいいんだと思う。生活って。

「生まれたら一変するよ〜」といろんな人が言う。「お腹に入ってるうちは楽なのよ」と。「子どもを産む前と産んだあとでは、価値観が全く違う。」とかね。多分そうだろうな、と思う。そういう面もあるだろうな、というか。自分よりも優先するものって、これまでなかったわけだから。そんなにも大事なものを腕に抱く喜びとおそれってすごいだろうなと想像する。楽しみでもある。

それでも、私は、敢えて言いたい。30も過ぎた人間、たぶんそうそう、そんなに変わらないし、それでいい。新しいたくさんのことに出会いたい(出会いたくないこともある)。でも、新しいものごとと接するのは、これまで生きてきた私だ。

楽しかった妊婦生活と同じように、毎日はずっと地続きであってほしいものだと思う。