『トリックスターから、空へ』太田光

トリックスターから、空へ (新潮文庫)

トリックスターから、空へ (新潮文庫)

出所が書かれていないのだけれど、ひとつひとつのエッセイの末尾には書かれた年月が付されているし、どうもどこかで連載、あるいは発表し続けたものを本にまとめたものではないかと思う。新潮文庫版、裏表紙の紹介文には、こうある。
『世の中に彩りを添える“道化(トリックスター)”として現代を見つめる鋭い視線は、ユーモアに満ちている』

ユーモアといっても、腹を抱えて笑うような本ではない。子どもの頃の思い出や読書体験など、個人的なエッセイもあるけれど、書かれた当時(2004年から2006年)の時事について多く取り上げている。至極真面目に。

小泉政権下であり、イラク戦争郵政選挙ライブドア問題などに揺れた時代。いま思えば、当時こういう意見をはっきりと聞くことは少なかったように思う。太田光にしても、テレビでは当時も諄々とバラエティ番組をやっていたはずだし、テレビではなく活字媒体だからこそ活発な論壇があったのかもしれない。

なんにせよ、こんなことを書いてしまう太田光が私は好き。でも、「読まなきゃよかった」「読んだらなんか嫌になった」って人がいても全然おかしくないと思う。政治とか国際情勢とかに対して意見することは、「クールじゃない」「かっこ悪い」ていうムードが、日本の中年以下の層では大きい。まして太田は、ど真ん中からちょっとズレている感はあれども“芸人”だ。こういった論をぶつことを多勢に求められているわけではない。

文化人ぶりたくて書いているというよりも、私は、太田光はこういうことを「思わず書いてしまう」「書かずにはいられない」性分なのではないかと思う。そして、前書きやあとがきで妙に居心地悪そうに言い訳を繰り返していることからみて、本人自身、そういう性分をもてあましているところがあるんじゃないかと思う。大いなる自意識と自尊心、それに伴う照れや羞恥心。そういうところが好きだし、彼の考え方は、一市民としてとてもまっとうだと思う。

たとえば。イラクで3人の日本人が人質になり、のちに解放された事件。「自己責任」という言葉があちこちで唱えられ、人質の家族には批判や嫌がらせが集中した。

家族は記者会見でしきりと謝罪をしていた。皆さんに迷惑をかけてすみませんというわけだ。それを見ていて私は、果たして家族がそこまで謝罪する必要があるのだろうかと疑問を感じていた。
自衛隊の撤退が人質解放の条件であるならば、それを国家に要求することは家族として当然の行為ではないのか。国家がその国民を守るのは当然の義務である。家族が人質の救済を国に求めることの何がいけないというのか。(中略)
今回それほど急いで犯人の要求を拒否してみせたのは、そういった日本の姿勢をアメリカや国際社会にアピールするためである。「今自衛隊が退いたら日本は世界中の笑いものになる」と言った政治家がいた。それが政府の正直な意見だろう。優先順位としては、日本が国際的な信頼を得ることが、人質の生命よりも先に来るのだ。
国際的な信頼を得ることと、人間の命とどっちが大切なのか。私が人質の家族だったらそう言って泣き叫んだことだろう。世界の笑いものになることが何だというのか。国民の命を救うためなら喜んで笑いものになることを選ぶのが国家ではないか。

また、その後には、日本人の青年がやはり人質となり、首を切り落とされるという事件があった。

青年の家族が口にした言葉は、まず謝罪と、そして感謝であった。自分の息子を殺されて、何に感謝するというのか。家族にそれを言わせたのは民衆からのバッシングに対する恐怖であり、家族をそこまで追い込んだのは、この国の国民の圧力だ。嫌な国である。
人々は青年の死を“自業自得”という一言で片付けた。生きたまま首を狩られるほどの“業”が青年にあったのか。
世論を先導したのはマスコミである。犯行声明が出されたとき、全ての新聞が判で押したように胸を張って謳ったのは“テロに屈しない”という言葉だ。バカの一つ覚えである。毅然として勇気ある言葉。唱えるうちに気持ちよくなってくるのがわかる。しかしこの言葉、言った途端に思考停止する言葉である。対応策は“テロに屈しない”ただそれだけ。テロの意味もその背景も考えない。とりあえず言っとけば体裁が整う言葉である。