『曲げられない女』終わりました

最後に早紀(菅野美穂)の特大のシャッターが開く。しょうがないでしょ、私はこういう人間なの! 周りの人にはみんなに幸せになってほしい! 勝ち組負け組って何?! 自分さえ良ければそれでいいの?! うんぬん・・・・5分くらいありましたかね。

とにかく、長いこと長いこと。しかも、言ってる内容はど真ん中の直球(野球にたとえるあたり、自分の年齢を感じるわ・・・ふう)。最終回で初めてこのドラマを見たような人はドン引きだろうし、「シャッター開いた」に免疫のある私さえ、「ちょ、ちょっときつい・・・」と汗を拭き拭き、見つめておりました。

でも、終わってみて、「作り手は、あれこそを、やりたかったんじゃないかなー」と、ふと思ったりもした。

10話かけてこのドラマの世界観をかっちり構築してきたからこそ、できたこと。あんな、正論でしかないセリフ、説教じみたセリフを延々と聞かされるのが、もし初回だったら? 菅野美穂の演技力がなかったら? このドラマを丸ごと愛せてなかったら? とても耐えられないもん。

登場人物たちの特徴的なキャラといい、昼ドラもかくやと思わせる極端な展開といい、効果音や音楽、カメラワークなど、細部までかなり懲りまくり、意図的に手の込んだ作りこみを見せたドラマで、最後、あれだけ純粋まっすぐな長口上っていうのは、おもしろいなと思ったし、でもあのシャッターのために必要な仕掛けだったんだなーとも思う。

そんな最終回の視聴率は18.6%。初回の15&くらいを軽く超えてる。ばっちり受け入れられたわけで、これは作り手としてはとてもうれしいだろう。

10年日記とか、チーズを我慢とか、ゴミ箱シュートとか、「すみません、正確に言っておきたいので」「冗談です。喜んでいただけました?」とか、フンコロガシ・蛾・キリギリスの例とか、脚本家の小ワザの使いまくり方が私は結構好きで、初期の吉田修一の短編小説群を思い出したりしてた。それらをわざとらしさ・あざとさギリギリのところで見せる演出も巧かったと思う。

最終回では、それらの小ワザにもすべてきれいにケリをつけ、永作と谷原にもシャッターを開けさせ、2回も合格発表の夢やったり、産院を訪ねる正登(塚本高史)や、早紀・璃子(永作博美)の命名の様子などもそれぞれリピートしたり、10年後の顛末もしっかり見せるというてんこ盛り。あ、そこで3人ともちっとも老けメイクしないとこも、ファンタジーなこのドラマらしかったよね。おまけに、“勝ち組”だった能世あんなの10年後の凋落まで描いちゃう(こういう底意地の悪いラストも珍しいと思った。視聴者のカタルシスのためというより、作り手のちょっとした悪意でやってるように見えた)。

やりたいことは全部やったんじゃなかろうか。ほんと脚本家も演出家も本望だったろう。それだけのことをできる尺(15分延長)があるってすばらしいよ。と、前週、「不毛地帯」の最終回を見たがゆえに、なおさらしみじみと思わされたもんでした・・・。

菅野、永作、谷原の3人組だけでなく、塚本高史も、キャスティングといい演技といい、最高だったと思う。ぺらっぺらの正登が、生まれたばかりの娘を抱っこしての語りかけは、最終回でいちばん感動的なシーンだった。前話までとキャラ変わりまくってるのに、まったく違和感なく、むしろじーんとさせちゃうんだもん。やられた。

そして、ファンとしては、週がわりで毎回かかるマイケルの曲が気にならないわけはないんだけど、私は好きだったな。一歩間違えばとんでもなくお寒い演出になると思うけど、はっちゃけつつやりすぎず、楽しかった。最終回の1話手前で、マイケルの曲を教えてくれたのが正登だということが判明し、地位も名誉も失った彼が踊る後姿の「Wanna Be Starting Something」にはちょっとフォー!と思っちゃったし、最終回が「Man in the Mirror」だったのには大いに納得だった。