『天皇の国・賤民の国』(沖浦和光 河出文庫)

天皇の国・賤民の国―両極のタブー (河出文庫)

天皇の国・賤民の国―両極のタブー (河出文庫)

著者の長年に渡る講演や雑誌への寄稿などを集めたものなので、整然と系統立てられているものではないし、学問的に深い論説が繰り広げられるわけでもない。

しかし、その分、「日本人の起源とは」「天皇はどこからきたか」「賤民と芸能・文化」「部落問題」「明治の文人たちが天皇(制)についてどのようなスタンスをとっていたか」など、かなり幅広いテーマについてわかりやすく書かれたものを読むことができる。

縦軸を時間とすると、ヒトが誕生した100万年前に始まり、かつては大陸と地続きであった極東の我が国にいろいろなモンゴロイド系の民族が渡ってきた数万年前。それから混交が繰り返されたのちに8千年も続いた縄文時代。この時代の縄文人こそがわれわれ日本人の祖先であると沖浦は述べている。

その後、3世紀から4世紀にかけて、東北アジア騎馬民族が、朝鮮半島を経て九州にやってきて、やがて畿内にヤマト王朝をひらく。これが今まで万世一系で続いている。つまり、天皇家とは、朝鮮半島よりももっと大陸の奥地をルーツにもつ征服王朝だというのである。

天皇家大陸起源説はほかでも読んだことがあるが、2009年現在ではどんな学説が主流なのだろうか? また、この手の学説を読むといつも思いだすのが、故・氷室冴子が1990年代に書いた、彼女の最後にして最大のシリーズ『銀の海 金の大地』という4世紀の日本を舞台にした古代小説のことである。

銀の海 金の大地〈11〉 (コバルト文庫)

銀の海 金の大地〈11〉 (コバルト文庫)

コバルト文庫から出ているくらいだから、当然、女子中高生をメインターゲットにしているのだが、作中に出てくる「三輪の大王」一族は、戦の民=騎馬民族として大陸から各地を攻めては平定しながらヤマトに君臨しており、古くからの土着の豪族たちと熾烈な戦および政争を繰り広げているのである。氷室さん、そうとう調べてから書いてたんだな・・・。ほんとに、集英社コバルト文庫だけで細々と出版しないで、ばーんと本体で再版とかしたらどうなのよ?!てぐらいの名作なのだ。

話が逸れたが。

横軸を地理とすると、その幅は日本を越えてインドネシア辺境や、カースト制を戴くインドまで広がる。九州南部から南西諸島にかけて独自の文化圏を築いていた「隼人(ハヤト)」の源流はインドネシア系であると沖浦は述べている。また、インドのヒンドゥー教によるカースト制の身分の上下は、<<浄−穢>>観で貫かれており、これは、密教として日本に入ってくると、おもに天武天皇が構築した<<貴−賤>>による身分制にかわって、中世以降の日本にも根付くことになった。

沖浦は、自らが瀬戸内の水夫の出であり、身分制の外におかれた「家船」の漂泊民や、芸能をなりわいとした「河原者」、部落問題などについて専門とし、そのような人々に心を寄せている。

征服者である古い天皇が、みずからの権力を正当化し聖性を帯びるために、「大嘗祭」をおこなって神と同化し、己に従わぬ者、己と違う文化で生きる者を「卑賤」としたこと。やがて中世以降の武士の台頭により天皇家は長いこと衰えるのだが、その古い王権を復古させ、新たなカリスマとして売り出した(?)明治維新は、近代の革命としては類を見ないものであったこと。

彼は、天皇と賤民という両極のタブーは、権力者によって人為的にれたものであると明らかにすると同時に、中世の人びとは、身分の上層におかれた人に対するのと同じように、下層に、あるいは身分制の外におかれた人たちについても、ある種の呪術的カリスマを感じていたと述べる。だからこそ、「河原者」といわれる人たちによって営まれた歌舞伎や文楽といった芸能は人気を博し、浮世絵には遊女の姿が多く描かれた。ヨーロッパの宮廷文化とは非常に対照的な文化である。

そして、彼が子どもであった昭和の初めにも、うらぶれた陰陽師香具師、山の民・海の民などの漂泊民、平家落人伝説の残る部落、芸能をしてまわる人々などには、賤視だけではなく、畏怖がもたれていたという。このあたりの論は、宮本常一網野善彦とも重なるものを感じた。

はじめ、書店でこの本を見たとき、天皇論と差別論とを同じ俎上で論じることの珍しさに惹かれて手に取ったのだが、読後は、どちらか一方について語るだけでは片手落ちだな、と思えるほどに、入門編といえどもしっかりした本だった。そして思った。天皇?それが何?どうでもいいしー、ってなふうに思ってる人が増えるのと同じだけ、ゆえなき差別観というのは減りつつあるんじゃないかって。そして、それは、いい世の中なんじゃないか・・・というか、なるべくして、そういう世の中になってきてるんじゃないか、って。