『玻璃の天』 北村薫

ベッキーさんシリーズ』(というのかな?)第2作。

玻璃の天 (文春文庫)

玻璃の天 (文春文庫)

主人公が読書好きで育ちの良い女の子で、彼女が相棒的存在となる尊敬できる年上の人と一緒に身近な事件を解いていく、という点は、『円紫さんと私』シリーズと同じく北村さんらしい書きぶりなのだが、このシリーズは昭和7年に始まるのが大きな特徴。大陸でキナ臭い事件が起こり始めているものの、東京の街が20世紀初頭の繁栄に輝いていたころ。第1作のタイトル『街の灯』というのが、それを象徴している。

主人公の花村英子は、日本有数の大財閥の社長令嬢とくれば、ホンモノのお嬢様だ。彼女を学習院中等科へ送り迎えする専属の運転手としてやってきたのが、ベッキーさんこと別宮みつ子。当時では非常に珍しい女ドライバーであるばかりでなく、20歳を過ぎたばかりの才色兼備のこの女性が、諸事控えめながらも、英子のまわりで起こる事件の解決を手助けする。

事件には、他愛もない日常の不思議もあれば、いたましい結末を迎えるものもある。それらに出会い、受け止めながら、主人公の女の子が一歩ずつ大人になっていくのを、読者の私たちは微笑ましく、時に切なく見守っていく。これも、北村作品のデビュー当時からの作風なのだが、このシリーズで、作者は当然「選んで」昭和初期を舞台にしているのである。

第2作では昭和8年、15歳になった主人公は、級友と校庭で『あしながおじさん』について語り合い、その作者ウェブスターの本の貸し借りをしたりする無邪気な少女である。同時に、マレーネ・ディートリヒ主演の映画『間諜X27』で、娼婦からスパイに転身した女の一生についても語るなど、大人にもなり始めている。

しかし、あたりまえのように健全な成長を遂げている彼女は、暗い時代の影が確実に忍び寄っているのを確実に感じ始める。言論統制や、それに伴う暴力的粛清、恨みの連鎖、貧しい暮らしから軍隊を志望する青年。そして、本作のラストでベッキーさんの過去が明らかになったとき、主人公はベッキーさんに抱きついて、こう叫ぶ。

どうにもならないことはあるのよ。ベッキーさんの願う道は(本筋にかかわるので中略)、こうする前に止めることでしょ。
でも、それは出来ない。そんなこと、誰にも出来ない。だから苦しい。
わたしたちが進めるのは前だけよ。なぜ、こんなことになったのか。このことを胸に刻んで、生きていくしかないのだわ

とても悲しいラストだが、主人公とベッキーさんは前を向いて進もうとする。しかし、読んでいる私たちは、彼女たちがこの先、どんな厳しい試練にさらされるのか知っている。時代は戦争へと向かっているのだ。この時代に生まれなければ知らなくてもよかったこと、体験しなくても良かったことを、次々に課されるとき、彼女たちがどう生きるのか? これはもう、読まなきゃいけないな、という気もちになる。

その次作、シリーズ最終作の『鷺と雪』は、もう10年近くも候補に上がり続けながら、北村さんが昨年、51歳にして直木賞を受賞した作品となった。もう単行本になっているので読んでいる人もたくさんいると思うけど、私は文庫になるまでまた待とうと思います。この時代の「雪」といえば、どうしても、2・26事件が思い浮かぶのだが・・・。

ちなみに、この第2作の「幻の橋」の章で、博学のベッキーさんが「漢書」の言辞を引くところがある。

『善く師する者は陳せず。善く陳する者は戦はず。善く戦ふ者は敗れず』

うまく軍を動かす者なら、布陣せずにことを解決する。しかし、その才がなく敵と対峙することになっても、うまく陣を敷ければ、それだけでことを解決できる。さらに、その才がなく実戦となっても、うまく戦えば負けない。・・・という意味であることが解説される。

ベッキーさんは、民主思想を排撃する過激な主戦論者を乗せながら、運転席で堂々とこの格言を用いる。彼が降りたあと同乗しているのは、主人公の英子のほかに、学者の先生と、ベッキーさんをひそかに好もしく思っている若き陸軍大尉。ベッキーさんは学者先生に請われ、

「軍の方には、お耳障りのはず。しかし、庶民には、力となる言葉です」

と断って、格言の続きを口にする。

「善く敗るる者は亡びず」

次作、作者はどのようなこのシリーズにどのような結末を用意したのだろうか。